真に確実に修煉する、修煉の初心を取り戻す
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2021年7月2日】今月は2週間以上生理が遅れ、その後20日間近くも生理の出血が続きました。 この20日間は、烈火の如く手に負えないほどの試練を受けていたかのようでした。自分の心性の次元や境地の基準に対し、徹底的に試されました。

 生理が遅れた当初は、2~3日は何も感じませんでしたが、1~2週間来ないとなると少し不安になります。 同じ修煉者である夫と私は、子供が生まれてから長年禁欲生活を送ってきましたが、自分の身体のサイクルの状態の違いを、法に則って見ることはありませんでした。 また、ネットで女性の生理周期や更年期に関する記事をたくさん見つけ、41歳を目前にした自分を口実に自分を慰め、ネットで健康食品を購入したりしていました。

 2週間後、最初の4日間は経血が来るものの、以前よりも軽い量だったので、これは生理が長引いて経血の量が減る更年期障害の症状なのではないかと、さらに思い込んでいました。 しかし、5日目を過ぎた頃から経血の量が増え始め、1~2時間ごと定期的に排拙されるようになり、経血の量も少なくありません。それが2週間ほど続きました。 この頃から私の心が少しずつ不安定になり、「もう何日目だから止まるはず」、「もう何日目だから少なくなるはず」と日付を繰り返し数えていたこともありましたが、一日一日苦しい思いをしながら月経は続いていました。

 自分の心を見つめ直してみると、心の奥底には、自分の体が正常で健康であるかどうかを疑う気持ちがあり、何らかの「病気」にかかっているのではないかと恐れていること、つまり、師を信じて法を信じる事について、根本的に揺らいでいることがわかりました。 この心に沿って、さらに探ってみると、私には多くの部分で確固とした意志と堅実さが足りない漏れがあることがわかりました。

 少し前までは、私の住む地域では雨が降らず、この乾燥した天気が続くことである程度の不安を感じ、毎日心配して天気予報のニュースを見に行くほど、貴重な時間を無駄にしていました。 法理から言えば、この世にあるものはすべて神の手中にあり、ごくわずかな隙もないこと知っています。 しかし、水がないことによる生活の不便さや混乱、悩みを考えると、神のこの按排を素直に受け入れることはできませんでした。 それは、自分の根本的な利己心に直接触れらたことだと思い、心の中で「雨を降らせるという義務を怠ったのではないか」と、神々を避難したこともありました。 大法弟子が神を非難し、天に向かって文句を言う、この考えでどれだけの深い罪を犯すことになるのでしょうか? 

 その後、さらに掘り下げていくと、私はまだ苦しいこと、汚いこと、苦労をすること、疲れること、耐えることへの恐怖心が大きく残っていて、家のトイレ掃除や便器を磨く仕事が自分のものになっていなかったのです。 私はトイレに行っても、不潔な汚れを見るのが怖くて見たくもなかったし、時々、自分が汚いトイレにいる夢を見ることがありました。 そして、これらの恐怖心とともに、色欲心も隠されています。 これらの色欲心は、夫婦生活がなければ色欲心がないというわけではなく、インターネットでポルノビデオやアイドルドラマを見てしまうことも含めて、異性に評価されたいという欲求があり、それが夢の形に反映されています。

 多くの古書に書かれている物語から、ほとんどの人が一念のために道を踏み外し、本来の幸運や名声、肩書きが心性の低下によって損なわれ、不幸を被ったことを知ることができます。 そして、私は修煉者であり、実質的な行為がなくても、その深く隠されている欲情の念は天上ではハッキリと見え、犯した過ちはさらに深いものです。 そして、そのような心は、自分の見た目へのこだわりにまで及び、メンテナンスにも多くのお金を費やしています。 オフィスで若い同僚を見かけるとその服装に注目しますし、自分の体型も気になり始め、美しい体型を維持して良い服を着たいと思い、運動に多くの時間を費やしています。微かに 「食ありて福あり、食ありて安らぎあり」の認識で老けないために、いわゆる栄養価の高い食品やアンチエイジングのための健康食品まで買いあさっていました。 過去のことを思い起こせば、何人かの同修が健康食品を食べているのを見たとき、私は密かに首を横に振っていました。なぜなら、そのようなものは修煉者の純粋な体を汚していると感じていましたし、心の底から、師父や法を信じていなかった表れからです。

 しかし、自分の考え方にちょっとしたズレがあっても、それを直ちに法に照らし合わせていないと、最初のお試しのつもりからだんだんと至極当然になっていき、最後には法から逸していることすら気づかなくなってしまいました。 健康的で栄養価の高い食材や製品は悪いものではありませんが、それらを使って健康を維持したいという執着心や願望が生まれ、師父は最初から私たちの体をすでに浄化して下さっており、修煉して心性の関を乗り越える過程において少しずつ業力が取り除かれ、身体が浄化され、自分は修煉者であることすら忘れてしまったら、これはかなりの本末転倒です。 もし私が自分を修煉者として扱わなければ、師父はどのようにして私を弟子として扱われるのでしょうか?  自分の不条理さや法からの逸脱を考えると、冷や汗が出てきます。 これまでの私は、自分の「小さな過ち」に気づくことができず、無視してきたかのようでした。振り返ってみれば、私はこんなにも法からかけ離れていました。

 師父は「一部の学習者は病業の関を乗り越えられません。重大な過ちばかり考えないでください。大きな過ちがなく、法に対して確固たる信念を持っているとあなたは思っています。しかし、あなたはそれらの小さいことを軽視しないでください。邪悪は隙に乗じてくるのです。多くの学習者は小さい過ちのせいで命まで失いました。本当に非常に小さいことが原因だったのです。修煉は厳粛であり、漏れがあってはならないからです。あなたはそれらのことを長い間修めていません。小さいことですが、あなたは長い間重視していません。これで大ごとになりました。多くの人がこれで命を失いました」 [1]と話されました。

 幾重にも重なった天上の無数の神がすべての生命をよく検視しており、私たちの修煉はさらに無数の天体の膨大な数の生命に対応しています。 出血が続く中で、執着心を探ってみると、ある利己的な目的のために心に反することを言ったとか、わずかな利益を得るためにお金の抜け道を利用したとか、異性との会話の中で不正の念を持ったとか、自分の外見を気にしたとか、数年前の情景が蘇ってくることがあります。これらの情景はまるで、一面の鏡のように、過去数年の人に知られていない、良く修めていない、しかも当時気にしていなかったいくつかの面が映し出されていました。

 また、数年前に法を暗記するために師父との約束を書き留め、大法の一字一句を細胞に刻むと言ったことを思い出しました。 しかし、9回目の講義になると、最初にあった意欲が、後半には諦めかけていて2年、3年と中断し、二度と続きませんでした。

 私たちは皆、師父の心の中でよく修煉のできた弟子になりたいと願い、精進しようとよく約束もしますが、世間の誘惑に負けて、三つのことをしっかりできてないうちに、師父との約束はだんだんと忘れていきますが、師父は忘れてはいませんし、神も忘れてはいません。実は私も、心の奥底では忘れていないのです。 しかし、分かっていても約束を果たせず、これまで疎かにしてきましたが、実は修煉の道では、非常に大きな執着であったこれらの考えを前にして、悔いと恥じらいを感じていました。 私は長い間、自分の修煉に真剣に取り組んでおらず、小さなことで常人の多くの観念や作法を用いてすり抜けてきたことがわかりました。 表面的には、私はよく修煉ができて、法をよく理解しているように他人に思われていますが、実際には、直視したくない多くの隠れた執着があり、常人のいわゆる日常生活への憧れや幸福のために、それらの執着を保留したり諦めたくないとさえ思っています。

 私は感覚が乏しく、天目が開かれていない学習者であり、また、よく発正念をする時刻を忘れたり、眠くなったり、あるいは頭の中で思いを巡らせたりして、しばらくの間、発正念することを怠っていました。 でも今は、この経験をきっかけに正念を取り戻して、正念を発するようになり、その正念のエネルギーが天に向かってまっすぐに邪悪を滅ぼす勢いも感じられるようになりました。 師父の説法や、説法の録画を何度も何度も見て自分と比較しながら、本来の修煉の状態を見つけさせて下さった師父に心の底から感謝しています。もともと私の本体を覆っていた一層の汚泥がはがれ始め、光を放つようになってきたのです。

 20日間続いた出血は、絶え間なく自分を正す中で止まりました。 この間、かつて私は動揺したこともあり、気持ちの浮き沈みが繰り返された為、落ち込んだこともありましたが、私は常に自分が大法弟子であることを認識していましたし、大法弟子が歩むべき道は、自らが決めた唯一の修煉の道であり、確固たる信念を持って、無条件に基準を満たさなければならないと思っています。

 この経験で、修煉の厳粛性と重要性を深く認識しただけではなく、師父の法理をより深く理解し、師と法を信じる決意を深めることができました。私は、ただただ師父に深く感謝を申し上げたいと思います。私がまた今後の修煉の道をよく歩むことができるように、しっかりと人心を修め、追いつくための時間を掴むために、私を見捨てず、こうして目覚めさせて下さった師父に深く感謝したいと思います 。師父、ありがとうございました。

 不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご叱正お願します。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/10/426742.html)
 
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