師を信じ法を信じることは修煉の根本
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文/河南省の大法弟子  

 【明慧日本2024年12月19日】私は1996年に大法の修煉をはじめましたが、最初の数年間は法を学ぶことの重要性を深く理解せず、集団学法にも参加しませんでした。毎日朝晩、煉功や経文の暗誦には力を入れ、「大法は素晴らしい」、「良い人間になる」ということを心がけていましたが、法を学ぶ確固たる基礎を築けず、修煉という概念を持っていませんでした。2003年に他の省に出稼ぎに行った際、修煉を緩めてしまい、「大法は素晴らしい」という思いは心にあったものの、法を学ぶことも煉功もしていませんでした。

 2010年に体調を崩し、非常に苦しい状況に陥りました。その時、私を救えるのは大法と師父だけだと気づき、修煉を再開することを決意しました。師父はこの不甲斐ない弟子を見放さずにいてくださいました。

 今回、修煉に戻った後、私は大法が非常に貴重なものであることを深く理解し、この機会を非常に大切に思いました。飢え渇いたように、師父の説法を一冊また一冊と読み進め、大法の法理が私の思考にある汚れを次々と洗い流してくれました。そして、人生の目的は本性に立ち返ることであると悟り、心の境地も向上していきました。

 その頃、私は「私は本物の修煉者になります。しっかり修煉し、超脱したいのです」と心の中で師父に申し上げました。

 師父は私のこの濁った身体を何度も浄化してくださいました。身体の業を消し、浄化される過程で、特に片方の乳腺に不都合がありました。しかし、大法や師父に対する疑いは微塵もなく、何も余計なことは考えず、ただひたすら毎日法を学び、煉功を続けていました。ある時、父が心配して「そんなにずっと読んでいると、目が疲れるよ」と声をかけてくれましたが、私は「疲れない、ただ読んでいたい」と答えました。心の中では、これまで師父が説かれた多くの大法の経文や『各地での説法』をまだ読んでいないと分かっていました。全てを完全に理解できるわけではありませんが、師父が説かれる法理はまるで醍醐味を味わうように私の心を震撼させたのです。

 自分が法の要求からまだ遠く離れていると思うので、時間を惜しんで法をもっと読み、法に照らして自分をしっかり修煉しなければならないと感じました。ある日、本を読んでいると急に眠気に襲われ、ソファに横になって眠ってしまいました。夢の中で、巨大な手が現れ、その指が私の乳腺の痛む部分を軽く撫でました。その瞬間、クルミほどの大きさの黒い物体がその場から一気に取り除かれるのを目にしました。私はすぐに目を覚まし、座り直しました。夢で見た光景はあまりにも鮮明で、深く心に刻まれました。これは師父が別の空間で私の身体からその不純物を瞬時に取り除いてくださったのだと分かりました。私は両手を合わせ、師父に跪いて感謝を捧げました。

 法を学ぶことで、私は悟りました。師父が私の身体を浄化し、別の空間から悪いものを取り除いてくださったのです。これは私が修煉の道に再び戻るようにとのご配慮であり、師父が弟子を直接高い次元の修煉へと導いてくださったのだと、はっきりと理解しました。私は目に見える形で修煉しているわけではありませんが、自分の身体が絶えず変化しているのを確かに感じ取ることができます。また、日常生活の中で心性が少しずつ磨かれ、昇華しているのを実感しています。大法への揺るぎない信念と、師父への絶対的な信頼に支えられ、いつの間にか、これらの「難」を乗り越えた後、身体は法を得たばかりの頃の状態に戻りました。身体は軽く、歩くと風のように軽快で、精神面もまるで別人のように明るくなりました。

 数年前、私は理性的に真相資料を配布したり、同修と協力して地方に『共産党についての九つの論評』を届けに行き、人々に真相を理解してもらいました。ここ数年は、もっぱら対面で真相を語り、人々を救っています。

 数年前、私の地域では十数人の大法弟子が同時に連行され、家宅捜索を受ける事件が起き、一時、情勢が非常に緊張しました。私は恐怖心に襲われ、その頃は同修たちもあまり動こうとせず、交流する相手もいませんでした。一人暮らしだった私は、不安と抑圧感に苛まれ、正念を保てず、心を落ち着けることもできず、外出する勇気もなくなり、真相を伝えに行くことなどとてもできませんでした。この状態が数日間続きました。

 ある日、ふと「私は大法弟子だ。師父がおられ法がある。何も恐れることはない。普段通りやるべきことをやろう」と思いました。それから毎日、午前中に市街地から離れた場所に出向き、真相を伝えるようにしました。場所を日々変えながら活動し、家に戻ったら腰をしっかり伸ばして座り、正念を強めるために立掌して発正念しました。「師父、弟子の正念を加持してください。弟子を害しようとする別の空間のすべての邪悪、私が衆生を救うのを妨害する邪悪な要素をすべて解体してください。功能を使って、私の映像記録を消去し、何も見えず何も存在しない状態にしてください。彼らは私の名前を呼ぶ資格すらありません。私は正法時期の大法弟子であり、師父が按排されたた道だけを歩みます。迫害を受けに来たのではなく、師父を助けて法を正し、衆生を救うために来たのです。黒い手や腐った鬼を解体し、すべてを全否定します」

 私は毎日このように発正念を続けながら、自分の中の人心や雑念を取り除く努力をしました。そして午後は法を学びました。法を学ばないと考えがあちこちへ飛んでしまい、思考が過剰になり「恐怖」を感じるからです。このように法を学ぶと、夜になっても疲れを感じず、法理が私の心にしっかりと根を下ろし、私の思考に溶け込んでいきました。学べば学ぶほど安定感が増し、安心感を覚えるようになりました。

 法を学び続ける中で、自分の不足を見つけました。それは「迫害されることを恐れる心」、「修煉環境を失うことを恐れる心」など、様々な恐れがあり、それらはすべて自分を守ろうとする「私心」から来ていました。この「私心」が「恐怖」を生み出していたのです。「この『恐怖』は私ではない」と私は悟りました。しっかりと分けて、それを清め除去しました。私は恐れることはありません。正念を持ち、正しい行いをします。

 特にプレッシャーに直面する中で、毎日外に出て真相を伝え、「三退」を勧める際、心の中では「どうやって人を救うか」、「異なる人々に対してどうやって正念を保ちながら話すか」と考えていました。この過程で多くの人心を取り除くことができ、同時に「恐怖心」も解体されていきました。この間、心の中に小さな揺らぎが生じることもありましたが、否定的な思考が浮かんできた時はすぐにそれを排除しました。心性を磨く時間を通して、正念はますます強くなり、師父の加持による力を感じられるようになりました。それにより自分自身が大きく高まったように感じられ、不純なものがどんどん遠ざかっていくのを実感しました。

 その後の修煉の中でも似たような経験を何度かしました。うまく乗り越えられた時もあれば、あまりうまくいかなかった時もありました。しかし、師父の無量の慈悲と加持、守護のおかげで、大きな危険に陥ることなく、無事に乗り越えてきました。師父が繰り返し説かれる「弟子たちは法を多く学び、正念を多く発し、自分の不足を内に向けて探すこと」がいかに重要であるかを私は真に実感しました。師父は私たちに「内に向けて探す」という法宝を授けてくださいました。これからの修煉の中で、この法宝を大切にし、しっかり活用していきたいと思います。

 私は次のように悟りました。修煉者として、自分の修煉の道を一歩一歩着実に歩まなければなりません。修煉は厳粛なものであり、自分自身を修めることであり、自分の心を修めることです。以前のように同修に頼ることはできません。何か問題が起きるたびに同修に相談したり、仕事の量を修煉だと勘違いして表面的にとどまり、法に照らして自分を修めることが少なく、時には他人を修めようとすることもありました。そのため心が浮ついていました。しかし、心を静めて法を学ぶとき、師父は悟りを与えてくださり、解決すべき問題を見せてくださいます。この点については、同修たちも共感されることが多いと思います。

 自分を修めて初めて人を救うことができ、不純な要素を取り除くことで衆生を救度することにもなります。それこそが衆生への最大の慈悲と愛です。

 この数年間、真相を伝える過程で多くの人心を取り除きました。たとえば、真相を語り始めた頃は、あれこれと恐れる心がありました。うまく話せたときには心が浮き立ち、うまくいかなかったときには失望することもありました。しかし、異なる人々や出来事に直面する中で、これらを通じて絶えず鍛えられ、良くない人心を次々と取り除き、法の中で自分を浄化してきました。

 心に法と衆生を抱くとき、大法から与えられた智慧と平和な心、理性と智慧を用いて真相を語ることができます。その際、慈悲と穏やかさを人々に届け、「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」という種を彼らの心に植えるのです。これが彼らが将来法を得る基盤となるのです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/12/6/485813.html
 
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