文/アメリカの大法弟子
【明慧日本2024年1月7日】法難の最後の局面で、政治情勢を含む世間のさまざまな様子は、法輪功学習者(以下、学習者)のさまざまな修煉状態を反映しているのではないか? いったい、世間の大舞台は誰のために設けられているのか? 自分はその役割をうまく演じているのか? 問題がついに起きてしまった以上は、私たちは悪いことを良いことに変え、チャンスと見なして捉え、それぞれ修煉において突破し、長年の観念を捨て、長年手放せなかった人心を取り除き、法を正す修煉の圓満を目指して進んでいこうではありませんか。
トラブルに直面して、これ以上、それを外に押し付けることはできない。私たちはシャーロック・ホームズ探偵のように、最初に外部の手がかりを探しに行くべきではない。もしあなたの第一念、第二念、第三念がまだ外に向いているのであれば、例えば、師父が小範囲で説法されたことがあるか? 師父はこの問題についてどこかの小範囲で語れたことがあるか? 誰それがどうしたかなど。これらはすべて外へ向く思考であり、あなたがまだ修煉者としての習慣を身につけていないことを示している。おそらく過去にトラブルに直面したとき、常人としての対処法を選んできたことが多かったからだ。修煉がしっかりできている古い学習者は、このようには考えない。私たちもまた、科学者や研究者のように、思考が始まるとすぐに公式や論理分析、推論を使ってしまい、それから大法に基づかない結論を導き出し、修煉したいという心を混乱させたり、揺らいだりすることはできない。
内に向けて探すことは最も有効な方法である。大法の修煉は人心を真っ直ぐに指すものである。私たちは法を読むときだけ、これらの耳馴染みのある言葉を認め、大法の本を閉じて、何かトラブルに直面したときには、常人の理論や常人の方法、常人の習慣に戻ってしまうわけにはいかない。法難がなぜ起こったのか? なぜ再び波紋を広げたのか? それは、私たちの修煉状態がなかなか追いつかず、さまざまな言い訳や思い込みがあり、今でも自分の選択が常人のものなのか、修煉者としての心のあり方がどうあるべきかが分かっていないからではないか?
多くの学習者は、師父が小範囲での説法を好み、師父の周りに集まることを好むが、それは本当に法や師父への敬仰(けいぎょう)から来ているのか、それとも多くの常人の心が混ざっているのか? 出発点と目的は必ず言動に表れる。実際、師父の説法を直接聞くことにも代償がある。それは、自分で修め、悟る過程を省き、近道を歩むことになる。しかし、修煉には近道があるのだろうか? だからこそ、ここで難易度を下げれば、そこでは難易度が上がり、つまり、実際の修煉の難しさが増すことになる。だが、修煉がしっかりできていないため、問題に直面したとき、心は再び常人に戻り、結局一つの困難を越えられなければ次はさらに難しくなる。そして、越えられなければ越えられないほど人心がますます増えていく。結局「賢い人間」になってしまっては、法を正す修煉の求めているものではない。師父は「天地をば、法を正す道を阻み難し 只、弟子の人心により遮る」(『洪吟三』〈煩わし〉)。良いことがあればそれは自分、悪いことがあればそれは他人。これがどうして善の念であり、修煉者の姿と言えるだろうか?
すべてのトラブルは一つの試練である。最近、あるプロジェクトが訴えられた件は、まさに一つのトラブルである。このトラブルに直面したとき、学習者の中には、何もかも外部原因を考え、落ち着いて自分のどこかが間違っていたのかを考えようとしない人もいる。プロジェクトの中で、一部の人々の傲慢や策略、理屈を無視する態度は、他の学習者にとっては心性を修める良いステップとなるかもしれない。しかし、会社は社会に向けて活動している以上、社会のすべての人々に、あなたが自身に対するように寛大で、何も気にしない態度を強要することができるだろうか? なぜ一つの良い課題、良い方法、良いプロジェクトが、逆効果をもたらしてしまうのか? 課題の問題ではなく、人的な問題である——心性が正しくなく、徳がその位置に見合っておらず、常人としても良い人のように、謙虚で、仕事に真摯に取り組み、他人を尊重し、他人を思いやることができていないからである。
実際、トラブルに直面するたびに、内に向けて探しているのに、何も問題を見つけられないこと自体が問題である。毎日法を学んでいるものの、問題に直面すると、法で自分を導けない、心性が向上しないこと自体が問題である。問題をうまく利用できれば、それはすべて修煉の過程でのステップとなり、成長の階段となるが、うまく利用できなければ、それは修煉の道での障害物となり、法を正すことと人を救うことに損失を生み、救われるはずだった周囲の人々を落としてしまう。それが善行と言えるだろうか? まだ誰のせいにしているのだろうか? 思想の業力が非常に強くなっている学習者もいるが、どうしてまだ目覚めないのだろうか? 今すぐ自分を見つめ直し、正し、補い直すべきであるのではないか。
師父はすでに「正念は世の中の人を救う可し」と教えてくださった。(『洪吟二』〈法正乾坤〉)。私たちも簡単に旧勢力の仕掛けに惑わされてはいけない。すぐに目を覚まし、各自が修煉の中での正しい行いを通じて、悪い事を良い事に変えるべきである。
[修煉者同士の理性的な交流は、通常その時の修煉状態に基づいた認識であり、善意ある交流を通じて、共に向上するためである]