神韻のボランティアをすることは、私の最大の光栄
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文/トルコの法輪功学習者

 【明慧日本2025年1月15日】なぜ悪意のある記事が神韻を誹謗するのか、私は不思議に思います。最初はアメリカで、今ではヨーロッパにも現れました。どうしてこんな不実なことが書かれるのか、全く理解できません。 

  私は毎年、神韻のためにボランティアをする機会を得ています。神韻公演は、五千年の中国文化の精髄を示しています。ダンサーたちは、演技を通して勇気、忠誠、誠実、そして、恐れを知らぬ精神を表現し、歴史の中の英雄たちを生き生きと観客に届けています。彼らの優雅で、かつ端正で、落ち着きのある美しく舞う姿は、極限の美をとても自然に表現しています。今日の道徳観の状況と、共産主義以前の中国の高尚な文化を比べると、現在の道徳観の衰退を深く感じます。私は、たとえ小さくても親切な行動がどれほど重要であるかを感じたことが度々ありました。例えば、今日の社会では「ボランティア」という言葉の重みを本当に理解している人が少ないように思えます。神韻公演でのボランティアとして、五千年の中国文化を復興し、支援する使命を果たすことができるのは、私にとって本当に光栄なことです。

 現在の人類社会を見ると、多くの人が利益を追求していることに気づきます。もし、その利益を得られないなら、他人を助けようとはしません。私は伝統の中の老年者への尊敬の気持ちが懐かしいのです。また、妊婦や障害者に対する自発的な援助の心も懐かしく思います。しかし現実の中では、私が積極的に助けようとすると、人々は疑いの眼差しや恐怖を抱いて応じ、助けを拒否するのです。ここまで酷くなってしまっています。これは悲しいことではないでしょうか?

 助けを必要としている時に支援を得られることは、なんと素晴らしいことでしょうか? 他の人を助け、善行をすることは、なんと素晴らしいことではないでしょうか? 穏やかな心を持つことは素晴らしいことではないでしょうか? 無償で他人を助けることは喜ばしいことではないでしょうか? 多くの場合、ほんの僅かな時間を使った小さな行動が、大きな善意をもたらします! 道徳はすでに堕落し、人々の認識が歪み、無私の善行が悪いことであると考えるような状態にまでなってしまったのでしょうか? もし、自己犠牲がもはや大切にされなくなったら、希望はどこにあるのでしょうか?

 昔、他人のために尽力することは、当然のことでした。今では、金銭や他の報酬がなくても友人を助けようとする人がどれだけいるのでしょうか? たとえ何の見返りを得なくても、他人を助け、そのことで幸せを感じる人は、どれだけいるのでしょうか? 私自身の経験から言うと、無条件に他人を助けることは、心に最も素晴らしい贈り物を与えてくれることでしょう。

 私は長年、神韻のためにボランティアをしています。公演シーズンが終わると、来年の公演が待ち遠しくなり、再び自分の力を尽くす機会を得ることを楽しみにしています。

 ところが最近、神韻がここまで攻撃されているのを見ると、私はとても悲しく感じます。

 私は、これらの悪意のある記事を読んだすべての人々が、自ら考え、神韻と法輪功についてもっと理解できることを心から願っています。もし、神韻公演を観たことがあり、その素晴らしさを理解した人々が神韻のために声を上げ、神韻への誹謗中傷を明らかにする手助けをしてくれたなら、非常に嬉しく思います。もしあなたが、神韻に対する非難が事実ではないと知りながら黙っているのであれば、それは実際に悪意ある誹謗を支持していることになるからです。最終的に、この沈黙は自分自身を傷つけ、他者をも傷つけることになります。

 神韻公演を観た観客たちの反応を見てください。彼らの目には希望と未来への信念が輝いており、それがまさに神韻が人々に与えているものです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/1/12/488238.html
 
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