—— 各地の同修が内に向かって探すように
一時期、異なる地区から現地の同修たちが次から次へと邪悪に不法逮捕され、不法拘禁された後に投稿する交流文章を良く目にするようになりました。私たちもその中の相当の部分の文章を次から次へと発表しました。しかし、類似した情況は依然として続き、異なる地区で問題が発生しました。その中で一部は、迫害の緊急暴露に重点を置き、急いで同修への救援を呼びかけました。また、不法逮捕された同修にどのような執着があるのか(この種の文章は益々少なくなっている。原稿から見て、各地の同修は矛盾と問題に直面してそれを解決するやり方が益々円容になり、内に向かって探すことを重視している)、あるいは、不法逮捕された同修に関心を持ってその同修に対して修煉状態の指摘や現地全体の情勢に対して意識的に注意し共に法の中で向上することが必要であるとの提案もありました。その中には、いまだに常人の心から抜け出して「三つのこと」を行っていない学習者に対し、もし、まだ出てこないと危険な状態に陥ることになると注意を呼びかけました(正法がまだ終わっていない限り、師父はあなたを待っており、あなたに機会を与えます。しかし、残された機会は益々少なくなり、その上、邪悪と旧勢力の要素は決してあなたを見逃さず、遅かれ早かれあなたに壊滅的な試練を加えるはずです)。
中国の伝統的な文化の中で、一つの道理を習った後「触類旁通」、「挙一反三」(両方とも中国の諺で、一つのことを習ってその通りに行なってはじめて本当にわかったことになるという意味を表している)して初めて本当に会得したことになり、やり遂げたことになると言っています。これは、ただ常人の次元においての要求に過ぎないが、私たち大法修煉者は、さらに師父が提出された「法を学んで法を得、法の勉強を競い、修を競う」注[1]との要求があります。
下記の文章および以前明慧で掲載した同類の文章の中で言及した問題は、その他の類似した状況の地区が、直ちにこれらの問題を重視し、向上するよう期待します。私たちは当たり前のように、これらの問題は他の地区の情況であり、私たちと関係ないと思い、それによって油断してはいけません。邪悪らが自分たちの地区に迫害の手を伸ばし、甚だしきに至っては自分の身にその迫害が起きてやっと法理上で問題を判断し、自分自身の修煉を見直すようではいけません。さらに、迫害が自分の身に起きているにもかかわらず、自分自身が他人の失敗を繰り返していることに気付かずにいるということは、悟性があまりにも低いのです。それによって自分自身と修煉者全体及び真相を説明して衆生を救い済度することに損失をもたらすのです。
正法がここまで進んできて、みな力を合わせて邪悪が二度と留置場、労働教養所、刑務所を利用して大法弟子を拘禁するなどの目的が達成できないように努めてきました。修煉者に対する法の基本的な要求に達することができず、損失を増やすようなことは私たちの望みではありません。迫害がすでに発生している地区に対し、私たちは力を合わせてすでに起きた迫害に対して逆に旧勢力の手配を突き破り、邪悪を暴露し、衆生を救い済度できる機会とし、邪悪の壊滅的な試練が達成できないように、法の中で共に勇猛精進しましょう!
明慧編集部
2006年6月26日
現在、遼寧東港地区に存在する問題、及び東港同修の緊急交流
文/大陸大法弟子
2006年1月25日から5月23日まで、私たちの東港地区で相次いで12人の同修が邪悪に不法逮捕される事態が起きました。正法の進展が今日にまで進む中、邪悪はなぜいまなお私たちの地区でこれだけ凶暴に私たちの同修に迫害を加えることができるのでしょうか? これらの一連の不法逮捕事件から私は、東港地区で私たちに求めている師父の「三つのこと」の中に存在する問題と不足を交流し、それによって全体の向上を図り、法の中で修煉し、自ら迫害の中で修煉しないようにしたいと思います。
言いたいことはとても多くありますが、しかし、あまりに長い紙面を持って同修たちの時間を無駄にしないようにと以下のいくつかの方面で個人的な認識を述べたいと思います。
1.法の勉強と修煉および正法時期の大法弟子としての使命と責任を依然としてわかっていない
一部の人は法の勉強が少ないかあるいは法の勉強をせず、自分は『転法輪』の中で述べられているものは全部知っていると思い込み、勉強をしなくてもよいと思っています。またある一部の人は迫害されることを恐れて法の勉強をし、邪悪は虎視眈々としているのだから、もし法の勉強をしないと邪悪に隙に乗じられて迫害を受けることになるのではないかと思って法を勉強しています。まるで法を勉強する目的は大法に同化して私たちの先史の願いを完成させるためではなく、ただ迫害を避けるためのようです。だとすると、私たちが今日この世の中にいる目的は何でしょうか? そんなにも迫害を恐れているのであれば、実際のところ、それは迫害を求めているのに等しいのではありませんか? その上、常人の心を放下できるかどうかは、常人と神の境界線なのです。
また、一部の人は、法の勉強を任務として感じており、心理状態はとても正しくありません。仕事あるいはその他の事をするついでにウオークマンできくか、あるいはMP3で師父の説法を聞くだけで充分だと思っています。そして余暇時間はしっかりと常人の生活を過ごすことに当てています。心を静めて純粋な心理状態で法を勉強し、謙虚で礼儀正しく師父の恩恵を受け入れ、大法が私たちに与えた知恵と能力を持って、さらに邪悪を暴露し、衆生を救い済度しようとしないのです。
更に、深刻なのは、いまだに師父が私たちに教えた「三つのこと」について、依然として理解できていないことです。ですから、それらをやり遂げて欲しいなど、なおさら言う余地もありません。『転法輪』だけ勉強すれば円満成就できると言ったのではないか? なのに、何故また私たちに真相説明までさせようとするのかと文句を言っています。
私は上記の学習者たちに一言、話したいと思います。もし私たちすべてがこのような心理状態で修煉を考えているのなら、衆生を救い済度するどころか、自分自身すら救うことができません。これは最も根本的な問題です。大法を得て長期にわたって大法を大切にせず、真に修煉できず、正法の今日まで進んでいる中まだこのような状態に陥っていては、師父が慈悲であなたを待っているにしても、邪悪と旧勢力の要素は遅かれ早かれ隙に乗じてあなたに「壊滅的な試練」を加えます。普段、あなたは心の中に法がなく、悪意を持った迫害の中で生死の関を乗り越えることができるのでしょうか? あなたが選択した未来とは何でしょうか?
2.真に法を師父としているかどうかの問題
一部の学習者は、いまなお師父が私たちに求めていることにしたがって行うことができません。大法を実証することと真相を説明することなどに問題が発生すると、法を持って正しいのか間違っているのか、行うべきなのか行うべきではないかを判断するのではなく、他人の行動を見ています。特に、重大な問題に対し、他人の動きを見てそれについていき、あるいは常人の心を持って大法を実証する中で私たちが行うべきことを判定しようとし、自分自身の正念を持っていません。
実は、これらの問題に関して師父は『精進要旨(二)・路』の中と最近の説法の中で何度も講じられています。私たちは師父の教えの通りに行うべきではないでしょうか? 私たちはどのように行なってきたのでしょうか? 「法を師父とする」ということは、ただ口だけでいうことではなく、この要求にしたがって行なわなければならないのです。大半の学習者たちは邪悪の邪魔あるいは困難にぶつかって互いの交流を行う時、最も多く口にする言葉は、「すべてを師父に従う」、「師父の教えの通りに行う」、「師父の教えは正しい」などなどですが、しかし、振り返ってみて、実践の中で私たちは一体どのように行なったのでしょうか? 「真に修をやり遂げてはじめて修」になるのです。
3.全体の協調の問題について
全体の協調は、今日私たちが真相を説明し、法を実証し、衆生を救い済度する中で非常に重要なことであり、現在、各方面で現れています。次にこれらを一つの角度から、全体の協調の重要性とその巨大な作用について説明していきたいと思います。ある日、吉林のある地区の同修と交流を行なったことがありますが、この地区の同修たちの全体の協調はとても良くでき、それによって現地の邪悪を暴露し、衆生を救い済度する面において活動が非常に良く行われていることがわかりました。
例えば、同修が不法に連行された後、現地の同修たちと協調者はすぐ行動を起こします。ある同修はどこの邪悪な部門が仕出かしたことなのかを調査し(具体的に誰がやったのか)、ある同修は不法逮捕されて迫害を受けている同修の救援を呼びかける真相資料やチラシを貼ります、また近距離発正念や、迫害を受けている同修の家族と一緒に派出所に行って行方を探します、どうしても時間をつくれない同修であっても決めた時間に一斉に発正念を行ない、すべての同修が自分にできることを分け合って全力を尽すと言います。このような状況下で当時、接待室の警官の手はペンを持つこともできないくらいぶるぶると震えていたと言います。その結果、しばらくすると逮捕された同修が無事労働教養所から出て来ます。
もう一つのことですが、同修一人が労働教養所で迫害を受けて死亡した後、現地の同修たちは様々なやり方で邪悪を暴き出しました。現地の公安局は他の地区の公安局に電話をかけて、「あなた達の地区の『法輪功』を良く監視してください。彼らが私たちのところに来ると困るから」と、いわゆる注意を呼びかけたそうです。これは何を物語っているのでしょうか? 一つは、邪悪と悪人が私たちを恐れているのであって、私たちが邪悪を恐れる必要はないということです。もう一つは、邪悪は私たち全体を狙っており、誰か一人の個人を狙っているのでありません。
ちょうどこの方面において私たちの地区はとても欠けています。私たちの地区は、同修が邪悪に迫害される時、果たしてどのように行なったのでしょうか?大半の人たちは誰かが逮捕されたということを耳にすると、真っ先に思うのが自分自身を保護することです。おや、彼が逮捕されて私に影響が及ぶと大変だとか、自分に影響が及ぶようになると恐怖を感じパニック状態に陥り、正念がなくなります。またある一部の人たちは、逮捕された同修のことが自分の身の安全に影響を与えそうもない時は、まるで自分とまったく関係のないように、「彼に漏れがあったのでしょう。きっと彼の漏れなのです」と、冷たい言い方をします。
上で言及した二番目の問題の中で述べたように、私たちは常に師父が私たちに求められた通りに行なったのでしょうか? 師父がこの迫害を認めていないのに、なぜ私たちは認めているのでしょうか? 漏れがあるからといって迫害を受けるべきなのでしょうか? 私たちがこのような言葉を口にする時、その時の私たちの基点はどこにあるのか考えたことがあるのでしょうか? このようであれば邪悪は更に理由をつけて同修を迫害するのではないでしょうか? 同修が迫害を受ける時、私たちがまず考えなければならないことは、同修に対する邪悪の要素を取り除き、迫害を否定し、同修を救援することです。数年前に『明慧週刊』に掲載されたある文章の中に、「……刑務所で迫害を受けている同修たちの身に、私たちが踏みつけた足跡はないのでしょうか? 」という内容が書かれていたのを覚えています。
私たちは一つの全体であり、邪悪が同修を迫害していることは、私たち自身を迫害していることではないでしょうか? どうして私たち東港地区は、不法に逮捕された同修を一人も救援することができなかったのでしょうか? 本当の大法弟子であれば、誰一人としてこれが自分と関係ないと言い切れるのでしょうか! 正法の進展が進む中、私たち東港地区の大法弟子は全体上で良く協調し合うべきであり、こうしてはじめてより多くの世の人々を救い済度することができます。現在の情況から見て、私たち地区の全体の協調はまだ足りず、私たちに対する師父の期待に背き、衆生が私たちに対する希望に背いています。更に多くの同修が立ち上がって、協調の輪に入り、時間を大切にして残り少ない期間に私たちが行なうべきすべてをやり遂げましょう。
4.現在、協調役をやっている同修に存在する問題
(1)人心を持って法を実証する問題に参与
法を実証する中で私たちは、多かれ少なかれ人心を持ち込んでいますが、修煉と真相を説明して衆生を救い済度する活動によって、これらの人心がますます少なくなり、正念がますます強くなりました。しかし、もしこれらの方面において協調者が気をつけないと大きな損失をもたらすことになりかねません。
例えば、『九評』が出てから、ある協調者は、「他の真相資料はすべて作る必要がない、東港地区のすべての人が真相をわかっているから、『九評』だけをすれば良い」と、言いました。その結果、すでに準備してあった真相資料が配布できなくなり、また資料を必要とする他の地区には資料が間に合わないといった問題が発生しました。
協調人が自分の判断で東港地区のすべの人が真相を知っているとしても、その他の学習者たちも盲従してはいけません。本当に真相が伝わっていれば、なぜ、邪悪はまだ私たち同修を逮捕して迫害しているのでしょうか? なぜ、真相をわからない人々がまだ真相資料を配布する同修を告発するのでしょうか?『九評』だけをやって、他の真相資料を本当に作る必要がないのなら、「明慧ネット」は、なぜまだ真相資料を掲載しているのでしょうか?
2006年5月17日、「明慧ネット」は、2003年11月15日の師父の評語文章である『現地の民衆に現地の邪悪を暴露する』をもう一回掲載しました。私の理解の第一は、これは正法進展の需要であり、第二は、現地の民衆に対する現地の邪悪の暴露がまだ足りず、暴露がまだ徹底的ではなく、全面的に邪悪と悪人を暴露しませんでした。私たちは今回必ず全面的に徹底的にこれらのことをしっかりと行うべきです。
最初のころ、この同修はとても熱心に迫害されている同修の資料を調べて整理して、小冊子にするつもりでした。材料をすべて整理して小冊子にしようとした矢先に、この同修の人心が表れました。以前迫害された時のことを恐れ、また、家に戻って来た同修が今回邪悪を暴露したことによって再び逮捕されて迫害を受けていることによって再逮捕を恐れて、同修に迫害を加えた邪悪を暴露しなくなりました。そのため、東港地区は現地の邪悪を暴露する資料を、今もって広範囲に配布したことがありません。
邪悪を暴露しないということは、邪悪の存在を認めているのではありませんか? 自分の実名で邪悪の迫害事実を暴露する同修たちのことを考えると、私たちと彼らとの距離があまりにも遠すぎるのではありませんか? 邪悪に対する暴露がまだ足りないから邪悪は狂気になり、迫害を受けている同修たちは心の中で、私たちが彼らを迫害している邪悪を暴露することを望んでいるかもしれません。私たちは、いつも「すべてを師父の按排に従う」、「すべてを師父の教えの通りにする」と、口にしているのではありませんか? それが必要な時になると、私たちはなぜ、師父のお話の通りにしないのでしょうか?
(2)同修の提案を受け入れない問題
私たちの中に異なる提案や意見を受け入れない協調者がいます。いつも同修が異なる提案を出す時、同修の話を最後まで聴こうともしません。同修の提案を受け入れることは更に言う余地もありません。この問題の現れは、協調者自身の修煉と関係がある以外、私たちの中で「法を師とし」、人に学び法を学ばない、また正念がない同修たちには、とても大きな関係があり、協調者の家長といったやり方を助長するのです。ここで言いたいのは、すべての同修が協調者に協力しなくて良いということではなく、みなさんがこれらの問題の重要性を理解し、全体の協調がより順調に進むよう期待します。
注[1]:師父の『洪吟』の中の「実修」(1994年10月7日)。
(English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/6/29/74936.html) 更新日付:2011年10月13日