念が先 結果はあと
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文/道喜

 修煉において、道理は人間の理と往々にして反対です。常人は、「物質と精神は同一のものです」(『転法輪』)という道理を知りません。だから、常人はいつも何かに遭うと、どうしようもなく、結果を受け止めるしかないのです。
 
 修煉者はこの理を知っており、多くのことは自分の心次第ですので、何かに遭うと内に向かって探します。往々にして、表面上では動いてませんが、真に自分の執着心を探し当て、それを無くそうとすれば、それに連れて外部の環境も変わります。反対に、もし修煉者がトラブルの中に潜り込んで、問題を解決することばかりを考えて、真に自分の心を探さなければ、やればやるほど混乱になり、根本的な解決にはなりません。これは歯の治療のように、道具がいかに使いやすくても、消毒や麻酔をしたあげく、歯の根が折れてもどうしようもないのです。

 だから、修煉者はトラブルに遭ったら、まず自分の念が正しいかどうかを見ます。人の問題を見たり、誰が責任を負わなければならないとか、互いに指摘し合うなどをしてはなりません。修煉者にとって偶然なことはありませんので、修煉と向上に関係のないことはないはずです。トラブルがあったら、原因があり、その原因はきっと自分に関係があります。これはまさに自分の心によるものかもしれません。次に具体的に例をあげます。
 
 数年前、たくさんの修煉者は常人に期待していました。結局、その常人は悪くなりました。一部の修煉者は人に学び、学法を重視しないため、結局、皆が学んだその人は迫害されました。厳しく言うと、我々の人心でこれらの人を害してしまいました。

 もう一つの例ですが、同修Aさんは息子に対してひどく情を持っています。息子は、なかなか学法したがらなかったのです。それからAさんはある日、忙しくて息子のことを忘れたところ、家に戻ったら息子がみずから学法、煉功をしているのを目にしました。Aさんは、自分の息子に対する情によって、息子の修煉に影響を与えたと反省しました。

 もう一つ私が経験したことですが、Bさんは修煉の進展について来れなくなりました。この人はとてもメンツを重んじて、人に指摘されたくなく、交流しても態度が冷たかったのです。私はBさんのところに行きたかったのですが、その冷たい態度を思い出して、なかなか行動できなかったのです。それから、自分はやはり人に誤解され傷つけられたくないから、Bさんのところに行かないと思いました。そこで、自分はこのよくない心を滅してから、思い切ってBさんと交流しに行きました。結局、Bさんはとても明るくて、心を割った話がたくさんできました。今回のことは、やはり自分の心次第だと悟りました。最初は、自分を保護する思いが強くて、当然なことに結果は悪かったのです。今回は互いに心を割って話すと、当然よくなりました。

 以上のことは、念が先にあって、結果はそのあと、つまり念が原因で、結果はその後についてくるということです。ですから、修煉者としては、いつも内に向かって探すべきです。たくさんのことは自分の心次第だからです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/9/27/247188.html)     更新日付:2011年10月7日
 
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