本来の自分を探す(一)
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文/中国の大法弟子 常思念 

 (明慧日本)『明慧週刊』504号の文章「中国大陸の同修、インターネット法会で向上の機会を失わないように」を読んで、私はとても共感しました。今回、私は丸5日間を要して、自分の修煉体験を書き、期限内ぎりぎりに明慧ネットに投稿しました。私はこの原稿を書く過程で1人の大法弟子として自分自身を向上させることができました。この過程の中で、私はさまざまな妨害を排除し、次元を昇華させることができ、師父の説法に対する認識も一層明瞭になりました。

一、観念を変えて、思想の妨害を突破する

 私はもともと重病患者でしたが、15年間の修煉を通じて、心身ともに著しく変化、修煉に対する信念を一層固めることができました。しかし、この間違ってはならない修煉の道を、私はずっと無神論に深く毒害されていたため、正しく歩むことができませんでした。私は強烈な人心により長い間、停滞して向上できませんでした。今回インターネットの法会で体験談募集され始めましたが、私の考え少し麻痺し、思想のなかに障碍がありました。学法グループでの交流を通じて、私たちは誰でも体験談を書くべきで、各々のレベルに関係なく、自分の思想の中の障害を突破すべきだと認識しました。私たちは大法の一粒子として、宇宙の法を正す時期の歴史的使命を背負っており、積極的に投稿しなければならないと私たちは認識しました。私も同修に鼓舞されて、自分なりの体験を書き、今回の機会を逃してはならないと思いました。

 決心はしましたが、私はなかなか書き始められませんでした。2日間が過ぎても、ただ焦ばかりの状態でした。その時、師父が私の願望をご覧になられ、周囲の人を通じて私に啓示してくださいました。ある日、家族(修煉者ではない)と一緒に話していた時、「教育を受けていない年配の同修でさえ、よい文章を書くことができるのに、こんなに学歴があるのに、なぜあなたは書けないの?」と家族は言いました。夫は、「の人は心から書きたくて書いているのに、あんたは書くために書いている」とはっきり言いました。娘は、「投稿するのではなく、自分の修煉をまとめるために試してみれば」と言い、さらに続けて、修煉に関して、「お母さんは修煉のためではなく、するためにしているようにみえるわ」と言いました。

 「そうです、私は本当に修煉しているのでしょうか?」 家族は、私が書くために書き、するためにしているとみています。それでは修煉の中で、私は修のために修しているのではありませんか? 学法グループの同修は「投稿は法に基づいて、法を実証し、自分を実証してはいけません」と言ったことがあります。なるほど、問題はまさにここにあったのです。第7回の法会で、私は大法に病気を治してもらったという認識のもと、恩返しの心を抱いていたのです。それではどうしてもっと高い視点で体験談を書くことができるでしょうか。師父は「大法が自分の病気を治すことができると思う人もいる」「修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです」(『精進要旨二』「圓満成就に向かって」とおっしゃいました。そうです、この執着心は、私の修煉の中でどれほど大きいのでしょうか!

 私たちは法を正す時期の大法弟子であり、これほど神聖なことに関して、自分の責任と使命を忘れてはなりません。真に法に基づいて行なうべきです。法理をはっきり認識すると、思想の妨害も排除し、頭も冷静になりました。大法を修煉して15年間、どれほどの奇跡的な変化、あるいは常人には理解できない多くの現象を体験したことでしょう。それらの一つ一つが映画のように一幕一幕浮かんできました。私たちは天上の王であり、大知恵を持っていると師父はおっしゃいました。大法弟子は大法に基づいて行なえば、できないことはありません。修煉者の基点に立って、心から書こうと思えば、書くことはたくさんあります。交流を通じて、自分の悟性も向上しました。

(続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/4/248685.html)     更新日:2011年11月7日
 
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