文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年1月2日】技術担当の同修が連行されたことは、地元に計り知れない損失をもたらしました。そして、その同修を助けだす過程は全体を形成し、衆生を救い済度し、全体が向上する過程でもありました。
その同修は学法に励み、お金や色欲に関して正しく修め、しっかり修煉していました。ただ旧勢力の按排を徹底的に否定していませんでした(路頭に迷うことは師父の按排ではありません)。同修が迫害されたことは、私たちが彼の技術に依存していたことと大きく関係しています。資料を作る同修が問題を起こしても、内へ向けて探さず、技術的な解決策に頼るだけで、心性を向上させる機会を逸しました。依頼心から、技術を担当する同修への尊敬と情が起こります。これらの人心が同修に魔難を招く原因となってしまうのです。
明慧ネットの文章にこう書いてあります。「もし彼に危害を加えたいなら、依頼しなさい」 誰が同修に本当に危害を加えたいのでしょうか? しかし実際はこれらの人心が危害を加えるのです。全国各地で連行された同修の中に、技術を幅広く知って担当している同修がいます。彼らはとてもしっかり修めているように見えますが、本人を迫害する要素は、その人に依頼心をもつ同修と関係ないのでしょうか?
同修を救いだすには表面的な方法だけでなく、全体が法理に基づいて認識し向上することが肝心です。たとえば、同修が迫害を受けて私たちが発正念をするとき、どんな基点に立って正念を発しているのでしょうか? 情でしょうか? 技術を担当する同修がとても重要だから迫害されてはならず、資料センターの機械が壊れても他に直せる人がいないからですか? 本当に法に責任を持ち、衆生を救い済度することに責任を持って、純粋な正念を発しているでしょうか? 全面的に旧勢力の按排を否定し、邪悪が世の人をコントロールして大法弟子を迫害し、衆生を滅することを許しませんと発正念をしているでしょうか? 私たちは、湧き起こる様々な人心を修め、自分の考えをひとつ漏らさず注意深く修めるべきで、よくない考えをおこさないでください。なぜなら、思想と物質は同じだからです。
最後になればなるほど、要求は高くなります。資料を配るにせよ、顔を合わせて真相を伝えるにせよ、協調するにせよ、資料を作るにせよ、その中で自分を修めるべきです。もし、しっかり修めず、いつも同じ次元にいて、妨害が絶えないなら、機械を直す前にまず自分を修めるべきです。皆はこのことを知っていると思いますが、本当に問題に遭った時は、技術を担当する同修に見てもらおうと多くの人が考えるのでしょう。
同修が迫害を受けた後に、いろいろ考えました。初めは人心だらけで、第一の念は機械が壊れたらどうしよう、同修からたくさん教えてもらっておけばよかったという心です。しかしその後、考え直しました。限られた時間をすべて技術の研究に使うべきでなく、正しく操作すれば問題は起こりにくいのです。機械が故障することは向上する機会なのです。内へ向けて探さず、問題が起これば技術を担当する同修にいつも解決してもらうなら、同修が機械を直してしばらく経つと、また問題が起こります。もしこういうことがいつも起こっているなら、技術を担当する同修は各地を回って機械を直すことに忙しく、その結果、落ち着いて学法し修煉する環境がなくなります。常人の方法で修煉の問題を解決しようとしても結果は明らかです。
(続く)