明慧法会|誓約と使命のために(二)
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文/湖北省の大法弟子 

 【明慧日本2015年8月9日】

 しっかり学法する事がすべての基本

 しっかり学法する事がすべての基本である事は、修煉者なら皆知っています。なぜなら、私たちのすべては法から来ているからです。師父はこんなにも長い間各地で説法され、より多く学法するように教えてくださっているので、修煉者はみな学法の重要性を知っています。しかし、どのように学法を確実に実行していくのかは、簡単な事ではありません。

 以前私は、学法の量を重要視していました。毎日少なくとも『轉法輪』を一講読み、時にはほかの経文も読みましたが、多くの場合、本当の意味で学法しているとは言えず、ただ形式に走っているだけでした。特に『轉法輪』は何度も読んでいるので、よくわかっており、そのため、読んではいるのですが、何を読んでいるのか自分でもよくわからなくなってしまう事があるのです。ある時期、学法する時にいつも、自分と法の間が何かによって隔てられているという感じを抱き、苦しみましたが、いつも突破できず、後になって明慧ネットで同修の交流文章を読んでから、学法の仕方をゆっくりと改めました。量を読むのではなく、よく読み込んでいけばよく、こうすれば一定の作用を起こしますが、しばらくするとまたダメになり、読んでいるうちにやはりぼうっとしてしまうので、私は暗記する事にしました。暗記し始めた時はとても骨が折れ、一段落覚えるのに半日かかりましたが、それでもかまわずに暗記しました。目的は法の境地に入る事で、このようにすると、確かに遅いのですが、効果はとても良かったのです。

 私は毎週、二つのグループ学法に参加し、1日『轉法輪』を学ぶと、 次の日は各地での説法を学び、法を学び終えると毎回、みんなで切磋琢磨し、問題があればみんなで討論し切磋琢磨しました。このようにすると、法理の認識は、学法グループの認識の向上につながりました。私たちのグループは本当に得難い存在で、修煉の向上のために並大抵でない師父の苦心を身に染みて体験して会得しました。

 このグループはそれぞれ違った特長を持っていました。ある者は携帯電話の技術をもち、ある者は神韻と法輪功真相の資料を作り、ある者はショートメールと写真付きメールの編集が上手で、ある者は法輪功が迫害されている真相電話をかけるのが上手で、ある者は直接真相を伝え資料を配るのが上手でした。師が法を正す事をお手伝いし衆生を救い済度する中で、まさに「八仙过海各显神通(中国のことわざ・各人が自分の特技を発揮する)」でした。

 みんな法の中で互いに学びあい修めあい、人を救うプロジェクトの中で互いに助け合い、互いに協調し、互いに力を合わせ、問題が起これば内に向けて探し、法から外れたために誰かに問題が生じれば善意の指摘を受けました。さらに体制を形作り、同修が提案した意見をみんなが大切にして、同修の意見をみんなが待ち望んでいるのです。例えば、ある同修は元々、自分と合わない意見は聞こうとせず、聞いてもすぐかんかんになりました。その同修がかんかんになったり、帰ってしまいそうになった時はいつでも、ある同修がかんかんになった同修の心を静めました。「同修の意見を認められず、かんかんになってしまう原因は自分自身にあるのではなく、その本当の原因を抑え、その本当の原因を消滅させるべきだ」と、内に向けて探させると、その同修はだんだんと穏やかになり、その原因を取り除きました。このグループでは、みなそれぞれの次元で向上しており、同修が私やほかの同修の問題を指摘した時はいつも、同修の慈悲とエネルギー場を感じ取る事ができました。

 自我を放下し 心の容量を大きくする

 私は携帯電話で真相を伝える以外に、週に1回か2回は必ず、『共産党についての九つの論評』(以下・『九評』を直接配ったり、真相週刊や、ネット封鎖突破ソフトなどのプロジェクトに参加しました。表面的に見れば、直接真相資料を渡す効率は、携帯電話ほど高くはありませんが、これはグループ活動であり、この中には多くの修煉の要素が含まれていました。例えば、「どのように互いに力を合わせればうまく行えるのか?」とか、「いかに全体の円融を理解するのか」、「自分の意見が受け入れられなかった時はどのようにすればいいか?」、「危険に遭った時の第一念は何か?」などです。去年、グループでは神韻DVDを主に配っていましたが、今年は『九評』に改めました。私自身はやはり神韻DVDの方が良いと思っていたのですが、みんなが決定したことについて私はやはりみんなの意見を大事にし、積極的に協力したので、神韻DVDは自分1人で配る事にしました。

 真相資料を配る事で、ある日こんなことが起きました。私たち4人の同修は時間を決めて待ち合わせをしたのですが、2人の同修がまだ来ておらず、私が時間通りに駅に着いた時、同修の甲さんはもう駅で『九評』を配り始めていました。「人数が揃っていないのに、どうして先に配り始めるのか? 時間を約束したのに、どうして遅れるのか?」と、心の中でためらいました。この考えが浮かんだ時、「間違っている、これは愚痴ではないのか?」と、私はすぐに思いました。そこで、「同修は縁のある人を逃したくなかったのではないか。そして、2人の同修は道が遠いので、もしかしたら渋滞にはまっているのかもしれない。だから、これは正常な事なのだ」と、すぐに自分を正しました。

 そこで、私はすぐに気持ちを落ち着けて傍らで発正念をしながらまだ来てない同修を待ち、大体15分ほど経つと甲さんは自分が持って来た『九評』を配り終え(1人当たり20~30冊)、この時、2人の同修はまだ来ていませんでした。しばらくして、路上を歩く人が少なくなってきたのを見て、「今度はあなたが配ってください、私が発正念しますから」と甲さんが私に言いました。駅の方を見ると、オートバイで客引きをしている何人かの人たちがずっと私たち2人を見ていたので、私は少し迷いましたが、遅れている同修も間もなく着くだろうと思い(一般的に遅れても15分は過ぎない)、配り始めました。

 ちょうど2冊の『九評』を配った時、遠くから私に向かって歩いてくる人が見え、私はまだその人に配る準備ができていなかったのですが、その時突然、良くない物質の存在に気づき、すぐに正法の口訣を念じ、師父に加持を求め、その人の背後にあるすべての邪悪を解体しました。これと同時に、甲さんが急いでやってきて、「配らないで、注意して、あの人は良くない」と、言いました。その瞬間、恐怖心が湧きあがって来たので、「私は修煉者だ、恐れる事はない」と、私はすぐに心の中で言い、努力して恐怖心を押さえ、強大な正念を発しました! すると、その人はすぐにその場で踵を返して戻って行きました。

 この時、約束の時間からはもうすぐ30分が過ぎようとしていたので、私は甲さんと相談して、「私たちはここで待たずに、もっと前の方へ行き、同修とは電話で連絡を取りましょう」と、言いました。私は落ち着いて発正念しながら前に歩いて行き、もうすぐパトカーの前に着きそうになった時、パトカーは走って行ってしまいました。

 「この事件の経過は、表面の空間ではどうという事はないのですが、他の空間では正邪の大戦が起こっていたのかもしれません。この過程で、修煉者の心が非常に重要な役割を果たし、起こした念が法に則しているかどうかで、大戦の結果が左右されるのだ」と、私は思いました。修煉者は師が法を正すことのお手伝いをし、衆生を救い済度するので、邪悪に迫害されてはならないのです。私たちの師父は根本から旧勢力そのものを否定しているので、私たちも旧勢力のいかなる按排も認めてはならず、私たちの修煉に漏れがあるかどうかにかかわらず、旧勢力を否定し、修煉者はただ師父が按排した道を歩むのです。

 その他に、全体が協力して資料を配る過程において、「大法弟子はいかなる状況においてもお互いにうまく協調する事ができ、協力する事ができるので、万能であり、そうであればもちろん、迫害が発生することもあり得ないのだ」と、私は悟りました。これを行うためには、私たちは法の中で絶えず「自我」を修煉して取り除かなければならず、無私無我で、他人を先に考え自分を後にするという正覚にまで到達するために、私も同修と真相を伝える過程の中で絶えず「自我」や「私」、愚痴る心や恐怖心を修煉して取り除かなければなりません。

 一般的に、外で資料を配る前に私はまず発正念し、その過程で、「正念の中で大法が皆さんとともにあり、これは絶大な保障です」[1]、「心の中で本当に恐れておらず、堂々と行うべきことを行い、堂々と神の道を歩み、恐れる心を無くすべきです」[2]と、心の中で師父の法を暗唱しました。「法を暗唱すると、自身の良くない物質が清められ、正念が一層強められ、宇宙の中の正の要素を引き起こす作用があり、師父が加持してくださり、邪悪は逃げ出し、恐れの物質はだんだん少なくなってくる!」という事を、私は体験し会得しました。

 「皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです」[3]と、師父は説かれました。

 ある日、「みんなで一緒に真相電話をかけましょう」と同修が私に約束しました。もともと私は取引先の会社で用事があったのですが(取引先は約束した場所からかなり離れている)、「同修とこのような約束をするのはなかなか難しく、みんなで一緒に電話をかければ互いの経験を参考にしあい、切磋琢磨できるのでとても得難い事だ」と思い、約束した場所へ行く事にしました。

 急いで得意先の用事を終わらせ、昼食をとる暇もなくあたふたと約束した場所へ急ぎました。その日は正に39度から40度の高温で、2時間近くかけてその場所にたどり着き、日中の太陽の中で、やっと公衆電話を見つけ出し、同修の携帯電話に電話しましたが(集合場所のはっきりした場所がわからなかったので、電話して聞こうと思いました)、同修の電話は切れており、かけ直しても、やはりまだ切れていました。この時、服はすでに汗でびっしょりぬれており、あまりの高温のために道を歩く人も少なく、どうしたらいいでしょうか? 帰るべきか、それとも、引き続き集合場所を探すべきか? しかし、帰りのバス停ははるかに遠く、おかしな事に、いくら待ってもタクシーが一台も来ず、「どうしてこうなるのか、同修は自分が言った事に対してどうしてこんなに無責任なのか、時間を無駄にしないためにも、これからはこのような事に参加しない方が良い」と、ぐ知る心があふれて来て、心は焦り、汗が止まらず、心が辛くなってきました。

 一方ではまた、心が動揺した事に気づきました。心が動揺してはいけないので、内に向けて探し始めました、何の心か? 愚痴か? 苦労したくないのか? 泣きを見たくないのか? 安逸心? 意志が弱い? 同修はもしかしたら携帯電話の電源を入れ忘れたのか、それとも何かほかの用事ができたのかもしれない?! それとも、携帯電話が壊れたのかもしれない! それならこれは正常な事ではないか、何を愚痴を言う必要あるのか?大法弟子がこのような心を持っていていいのか? これは邪悪が最も喜ぶ心なのではないのか? 師父はどのように説かれたでしょうか? 「一人の人間が神になるには、座ってお茶を飲んだり、本を読んだりしてなれるものではありません。この道で本当に修煉によって向上して初めてできるのです」[2]。修煉の道にあるすべては偶然ではないので、愚痴や安逸を解体して・・・数時間と言う時間をつぎ込んでしまいましたが、家に帰り、心は平静になりました。後になって、この面で邪悪要素の妨害が存在していたことを悟りました。なぜなら私が真相電話をかける事を、邪悪はずっと恐れていたからです。

 その夜、「すみません、携帯電話の電源が自動的に切れていました」と、同修が電話して来ました。「大丈夫ですよ、でも明日は電源を切らないようにしてください」(なぜなら別の同修が明日行くかもしれなかったからです)と言い、次の日の午前中、私はまた時間通りにその駅に行ってみると、誰もおらず、別の同修に電話すると、「今日は行かないことにしたのです。昨夜、彼女はあなたに言いませんでしたか?」と、その同修が言いました。どうしてまた問題が起きたのでしょうか? 夜の電話では「行かない」なんて事は聞いていませんでした。そうでなければ、電話の最後に「携帯電話の電源を切らないように!」などと忠告するはずがありません。しかしこの時、私の心はすでに平静であり、「私には取り除かなければならない何かがあるに違いない。しかし、大法弟子が真相を伝え衆生を救おうとする事を妨害しに来る旧勢力は絶対に許さない」と、思いました。

 (続く)

 注:

 [1] 李洪志師父の著作『各地での説法十』「マンハッタン説法」

 [2] 李洪志師父の経文:『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』

 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「再認識」

 [4] 李洪志師父の経文:『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』

 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「二十年説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/11/15/281631.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/11/27/143399.html)