真の修煉者になりたい(一)
■ 印刷版
 

文/海外の大法弟子

明慧日本2015年9月4日】修煉してきた道のりで、暫く経って、歩んできた道を振り返り、新たに「修煉とは何か」を考えています。それは釈迦牟尼が言われた、49年間法を伝える中で、絶えず向上し、振り返るたびに、過去の自分の認識が間違っていた、ことと同じだと気付いたからです。

 「修煉」への認識

 修煉したばかりのころは、煉功していない人をみる度に、自分は修煉者だと自覚しました。大法が迫害されてからも、修煉を放棄しなかった自分を、修煉者だと自覚しました。監禁された中でも、依然として法を実証した自分を修煉者だと自覚しました。

 しかし、今日まで歩んできて、再び振り返ってみると、自分はやはり真に修煉の意味を、まだまだ分かっていないことに気づきました。

 師父は私たちに「誰も相手を信用せず、本音を言わなくなり、誰も相手を指摘せず、誰も内に向けて探していません。これならもちろん複雑になります。あなたたちはどういうメディアですか? あなたたちは何をやっていますか? 修煉ですか? これほど強い執着を持っています!テレビ局にしても、大紀元、ほかのメディアにしても、今から修煉状態を変えてください。もう修煉者らしくありません! 以前から言っていますが、あなたたちはいつまで待つつもりですか? いつまで待つつもりですか?! もう時間はありません」を教えてくださいました。[1]

 師父がこの法を説かれて、ずいぶん経ってから、自分自身の事を言われているとやっと分かりました。確かに修煉者の考えから、ずいぶんかけ離れてしまいました。どのような状態が真の修煉でしょうか?法も勉強しているし、功も煉っているし、法を実証する仕事も行っています。しかし、これらの事は、私が大法弟子であるという証にはなりません。

 私は衆生を大事にしていないばかりか、他人を思う人にもなれていません。自分自身の中には、自分の考えや自分の観念、更に自分のことばかりを思い、考えています。そうするとこれらのことが(修煉の過程で悟った法への理解を含め)、トラブルに遭った時、「自分が正しい」との思いがすぐに出てきます。自分を少しも変えたくないし、否認されたくないのです。それゆえに仕事の中で、失礼な言葉を口にしたり、甚だしく人を傷つける言葉すら出てきます。そのために人と喧嘩したり、言い争ったりして、一人よがりになりがちです。自分が正しいと思う人が、自分を変えようともせず、どうやって法に同化できるでしょうか?これによって、勉強した法理で他人を分析して、まず他人を変えようとするのです。これで修煉者と言えますか?自分の衆生のことをどれほど思っていますか?

 これらの認識は書くまで、はっきりしていませんでしたが、書くことによって、よりはっきりしてきて、心から真の修煉者になりたい、新しい宇宙が要求する他人のための生命になりたい、と思うようになりました。

 師父は私たちに、他人を思う事は、個人修煉の問題だけではなく、大法の永久不変にもかかわるほど、とても厳粛な事だ、と教えてくださいました。

 私は自分の考えを変え始めました。仕事において、できるだけ他人の仕事の流れを考慮したうえで、自分は何か手伝いをしてあげられるか、考えるようになりました。自分と考えが違う時は、すぐに言い返すのではなく、余裕をもってから対応しています。怒る時は、自分の心が動じていると分かり、いくら正しいことでも、心が動じればすでに理に適っていません。真の修煉者になるため、まず他人を思うことから始めなければなりません。

 異なる次元の弟子を包容してくださる師父の慈悲

 座禅する初日から、煉功音楽の中に師父が、自分のできる範囲で煉功しなさい、とおっしゃるのを聞いて、自分が我慢できるまで煉功すればいいと理解して、1時間しなくてもいいと思っていました。

 しかし、数日前座禅すると、自分の我慢できるぎりぎりまで、煉功しなさい、と聞こえて、以前聞いた要求とまったく違いました。それで何をしても、低い基準で自分を要求するのではなく、最高の基準で、要求しなければならないと悟りました。師父が異なる次元の弟子を配慮し、すべての弟子に高い基準或いは同じ基準で要求するのではなく、各自それぞれの次元で修煉できるよう、寛大な心で私たち包容してくださっています。

 この事から、同じプロジェクトに携わる同修にしても、各地区に住んでいる同修にしても、師父が教えてくださったように、互いに理解しあい、尊重しあい、協力、協調しあって、異なる認識を包容すべきだと思いました。仕事の基準は変わりませんが、他人に対する態度が、慈悲であるべきと悟りました。

(続)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/8/28/314753.html )