3年かけてやっと1つの法理を悟る
文/中国・広東省の大法弟子
【明慧日本2015年10月3日】2010年、私は現地の同修たちと接触し始めて、それで同修AさんとBさんを知りました。AさんとBさんは80歳の老夫婦で、無収入で中学生になった孫を養育しなければならず、生活はとても困窮しています。知り合ってから私は少しずつAさんの家庭の困窮を知って、2011年、Aさん夫婦に対して私は金銭的な援助を始めました。それから3年の間、家探しと引っ越しの手伝いから食料品の購入まで、家賃の支払いからAさんの孫の授業料まで、時間と精力をたいそう費やし、お金も数万元(100万円前後)使いました。自分の貯金を使い果たしたほか、地方の同修からもお金を借りています。それに、地元の同修たちに迷惑をかけないため、それらの事はすべて私一人の心に収め、誰にもこのことを言っていません。また、私は何度もAさんに「私の援助を受けることについて、気にとめる必要はなく、私とあなたは同修関係で互いに助け合うのは当然です。一緒にこの困難な時期を乗り越えましょう」と言って、彼女を慰め、励ましています。
そのような状況は2014年6月まで続きました。2014年6月、Bさんに重篤な症状が現れ入院し、病院側は全身器官が衰弱し、危篤状態だと診断して、3日間で2万元(40万円相当)の治療費を使って、Bさんは輸血も受けました。その出来事に驚いた私は、もしかして、今まで自分のやってきたことが間違っていたのではないか、とはじめて意識しました。修煉者であるBさんは引き続き入院生活を続けるかどうかについて、私は一切介入しないほうが良いと思いました。常人の場合、もし家庭の経済条件が非常に悪いのなら、重病にかかった時、その人は治療を放棄するかもしれません。Bさんはお金を持っていなくて、そして誰からも入院費の援助をしてもらえないと分かれば、Bさんは入院しますか? 常人の血液、業力を帯びてとても汚れた血液を、修煉者は輸血なんか受けるべきではないと思います。Bさんはもし強い正念を持っていれば、入院せずにこの病業の関を乗り越えられるかもしれません。一方、正念が動揺することは修煉者にとって、何を意味していますか? 私は修煉者を害しているのではありませんか?
グループ学法の時、ここ3年間にAさん夫婦を援助したことを私は全部みんなに話して、自分のやったことが間違ったと思う、とも言いました。『米国東部法会での説法』に援助に関して師父は法理を説かれている、とある年配の同修が教えてくれました。私は家に帰って、さっそく師父の説法を読んでみました。
弟子:長期的に他の修煉者の善意による援助を受けるのは、無限に徳を失っているのでしょうか?
師:例を挙げてお話します。ある学習者は家庭の経済が急に厳しくなりました。修煉者にとって、この困難は以前作った借りを返すためのものであるかもしれません。以前の借りを返す過程の中で必ずこのように苦しみに耐えることがありますが、時間は長く続きません。多分このようなことがあると思います。他の学習者は彼が苦しんでいるのを見て、助けてあげるべきだと思うようになりました。どのように助けるのでしょうか? 皆お金を出し合って、お金を渡して、その家族の生活を支えていました。それで、この人はそれから何もしなくなり、法の勉強以外、家で食べたり飲んだりして、他の学習者からもらったお金を使っていました。更に続くと、法も勉強しなくなり、「お金を頂戴、私はこのように生活しますから」と言うようになりました。皆さん考えてみてください、皆さんは慈悲の心を持っていますが、このようにこれらのことに対処してはいけません。人それぞれに自分自身の難があり、他の人は慈悲からその人を助けたり、仕事を紹介してあげたり、または臨時的に何かの問題を解決してあげることができますが、決してこのように長期的に行なってはいけません。私がその人に按排した道は皆さんに破壊され、その人は修煉できなくなり、最後修煉をやめてしまいました。仕事も探さず、困難があっても解決せず、どうせ使えるお金があるから、毎月持ってきてくれれば良いのです。このようになってしまったら、学習者は一体何をやっているのでしょうか?
援助? 援助とは何でしょうか? 人に何かをあげるということです。知らない人はどうしてあなたにものをあげるのでしょうか? 皆学習者でお互いに知っています。しかし、学習者の間で高いものを簡単にあげたりすることができるのでしょうか? それはなぜでしょうか? 少なくともなぜこのようにするのかの理由があるべきです。もし高いものでなければ、なぜ長期的に絶えずあげるのでしょうか? これはなぜでしょうか? あなたはなぜこれを受け取るのでしょうか? 貪欲の心を放下できないのでしょうか? それとも他の何かが原因になっているのでしょうか? なぜ自分は原因を探さないのでしょうか? これではいけません。私たちの大法はお金や物に触らず、お金や物を蓄えることもしません。皆さんが修煉しに来て、ここに座っていますが、私は皆さんから一円も取りません。なぜ他の人が何かをくれる時に、それを放下することができないのでしょうか? ここで強調しておきますが、大法のために仕事をしている全ての人、または師父のために仕事をする人は、どんな理由があっても、決して学習者からの如何なる物品も受け取ってはいけません。言付けられ師父に渡すものなら、必ず師父によって対応されなければなりません。勝手に対応したり、または着服したり、手元に残したりしてはならず、師父宛の手紙や他のものを勝手に開けたりもしてはいけません。
師父の言葉、「学習者は一体何をやっているのでしょうか?」に、私はショックを受けて不安になって、居ても立ってもいられなくなりました。中国語には「腸が青くなるほど後悔した」との言い方があって、まさしく当時の私の心境を言い当っています。
では、これからどうしましょうか?――今までのやり方が間違ったと分かれば、直ちに改めて、Aさんの家庭に対する援助をすぐ止めます。
心の中ではAさん夫婦を恨んだり責めたりしていますか?――いいえ、私は内に向けて探さないといけません。Aさん夫婦もある意味で私に害された「被害者」なので、私自身がやった間違いは、他人を責める理由がありません。
AさんBさんに対する「同修の情」を放下できますか、Aさんの家庭の生活を心配しませんか?――心配なんかしません。大法弟子はみな師父に見守られているので、どんな難関もきっと乗り越えられます。私は「人」の力を重視しすぎで、ずっと「人」の方法を使って修煉者の問題を解決しようとしています。結局、解決どころか、かえって新しい問題が次々と出てきました。私は表面の現象に気を取られて、大法の力が他の空間で作用することを、すっかり忘れていたのです。つまり、私は大法と師父を固く信じていなかったともいえます。
後悔しますか?――後悔しています。
何を悔いていますか?――師父は経文にすべての道理を説いてくださったのですが、私が読んだのは余りにも少なすぎました。先生に申し訳ありません! 他の大法弟子は師に助けて法を正しているのに、法理がはっきり分かっていない私は、かえって師父に多くの迷惑をかけました。
これからどうしましょうか?――私は時間を切り詰めて、師父の経文を一通り全部読みます。必要以上に同修の家に行かず、同修に対する情を徹底的に放下して、心を静めてよく自分を修めてみます。
しばらくしてから、用事があってAさんの家に行ってみたら、Aさんは満面に笑みを浮かべて、私を迎えました。80歳のAさんはもともと体重が35キロ足らずでしたが、今は少し太り、顔色もよくなって、彼女自身によると、最近、食欲がでて食べる量も増えたといいます。一方、Bさんは退院して、家に帰って来た最初の数日間はとても大変で、そばにずーと付添い人がいないと駄目な状態でした。Aさんはご飯を作って食べることもできず、その間、同修は蒸しパンを10個買ってきて渡し、Aさんは蒸しパンをかじって、水を飲んであの数日間を堪えてきました。ある日、Bさんは突然「私は良くなりました」と言って、起きて歩けるようになりました。今、浮腫みが引いて咳も完全に止まり、喘息しなくなり、食欲も出てきて、頭も思考もはっきりしています。私が行った時、Bさんはテーブルを囲んでご飯を食べていました――その光景は以前なら絶対にあり得ないことです。
それはもともと喜ばしいことですが、私の心境はとても複雑でした。――今までやって来た過度な「援助」は間違っているように見えるのではなく、本当に間違っていたのです! 喜べないもう一つの原因は、自分の私心です。では、それも早く取り除かなければなりません。
私は3年の時間をかけてやっと、やっと1つの法理、「私たちの大法はお金や物に触らず」が分かりましたが、代価はとても大きいものでした。私はその法理の深層の意味を悟りましたが、それを言い出そうと思っても何も話せませんでした。
同修たちが日常どんなものを食べているのか、どんなものを使っているのかに気を配らなくなった時、あの利益に対する執着心と貪欲な心が、私を離れていったと実感できました。どんな食品やどんな日常用品を買って同修にあげようとか計算しなくなった時、かつて私をしっかりと縛っていたあのロープが解けたと実感しました。あれはつまり情と気がかりであり、観念や執着でもあります。私はやっと幾層にも重なった「人」の殻から抜け出て、心身ともに軽く、楽になりました。やっと私の小舟は、師父と大法に対する堅い信念、正念と純粋な心を載せて出航し、我々を待っておいでになる師父のもとに向けて、疾走します!師父よ、弟子の私は修煉の大道に、やっと戻って来ました!
師父のお導きとご加護に、深く深く感謝します。
同修たちの助けにも感謝します。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/9/7/152433.html)