相手を考え、もっと高い基準で自分を律する
文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年10月3日】ここ数日、妹は遠方に暫く行くため、妹の娘・姪の世話をするために、私は妹の家に寝泊りしました。半分に切ったスイカを食べる時、姪はスプーンで中心の最も美味しい部分を切り取って、自分の皿に入れたのを見た私は「今の子供はこんなにも利己的で、自分のことしか考えないんだ、これはみな中国共産党の歪んだ教育のせいだ」と心の中でつぶやきました。夜、姪は母親を思い出して私に「やはりお母さんが家にいるといいなー、何でもやってくれるんだもの。今は何でも自分でしなければいけないのよね」と言いました。私は心の中で「今の子供は本当に甘やかされすぎて、何でも親に頼っているので、姪を鍛えるために、いろんなことを彼女自身でやるように、経験させなくちゃいけないな」と思いました。ちょうどその時、姪の蚊帳が落ちてきて、私に蚊帳を張る手伝いを求めました。私は不満を抑え、手元のやっている仕事を止めて、手伝ってやっと蚊帳をもう一度張り直しました。
翌朝煉功をする時、「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」という『転法輪』の中の言葉が突然、私の脳裏に浮かびました。
私はすぐに自分の不足に気づいて、その時本当に驚きました! 師父は私たちに何かをする時には他人のことを考えて、問題が起きた時に相手の不足を見るのではなく、まず無条件に自分の不足を探すことを教えられています。つまり、自動的に内に向けて自分を探す思考回路を形成することこそ修煉なのですが、20年も修煉してきて、修煉の最後の時期に、そのような最も基本的な思考回路すら形成しておらず、私はとても恥ずかしくなりました。
私は今までずっと自分の悟性が悪くなく、修煉状態もまあまあ良いと思っていましたが、これでは、自分の修煉と法理に対する理解は表面だけに留まっている、としか言えません。姪の振る舞いは、私に自分の不足を見つけさせるための「虚像」なのに、私はつい、いろんな理由をつけ、大法の法理をもって姪の行為を評価し、一方、自分の不足を全然見ていませんでした。大法の法理をもって自分を照らさず、ただその高い基準で他人を評価するなんて、それはとても良くない、変異した考え方で、それはつまり旧勢力の考え方ではないでしょうか。そのような思考回路を持って大法に同化できるはずがありません。
本当に相手のために考えることは、相手にどうのこうのと要求するのではなく、どのようによく行なうかを自分に要求することだ、と私は今、理解できました。問題が起きたら、まず自分の非を見て、相手が間違っているかどうかは二の次です。必要であれば、自分の不足が見つかった後に、また慈悲の心を持ち、相手の不足を見て、善意を持って教えてあげます。これは大法弟子として最も基本的な考え方ですが、私はこのような考え方をまだ形成していません。今後、もっともっと努力して行こうと思います。