師父とともに過ごした懐かしい日々(三)
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文/中国・大連の大法弟子

 【明慧日本2016年4月10日】(前文に続く)

 三、成都で説法を聞く

 大連の講習会が終わった後、私たちが師父のそばからなかなか離れ難いのを見られて、師父は「6月に成都で講習会があります。その時に私と一緒に峨眉山に行きましょう!」とおっしゃられました。

 私と数人の女性の同修は、飛行機に乗って成都に行きました。空港から出てタクシーの運転手から、ここ数カ月の間雨が降っていなかったのに、ここ数日で突然こんなに多くの雨が降ったと聞きました。計算してみると、ちょうど師父が成都に来られてから雨が降り始め、これは師父が成都にもたらされた「福」だとわかりました。

 毎日雨が降っていましたが、師父と同じホテルに泊まっており、講習会の時に師父と一緒に出かけたため、雨に濡れたことはありませんでした。講習会に行く時にドアから出ると雨がすぐにやみ、会場に入った途端またすぐに雨が降り始めました。私たちは何回も身をもって体験したので、雨具を持って出かける人は一人もいませんでした。

 日曜日、地元の学習者が車を出して、私たちを青城山、峨眉山と楽山大仏に観光に連れて行ってくれました。幸いにも私たち大連から来た4名の学習者は、同行することを許され、車は雨の中を進みました。

 青城山はとても美しく、私たちが着いた時に雨もやみました。山を登る途中、師父は私に「あなた達には私がとても容易く登っているように見えますが、実は私は学習者達の大きな業力を背負っているだけではなく、あなた達が歴史上何代も積み重ねてきた怨恨の因縁までも、解決してあげなければならず、まるで3つの大きな大きな山が体にのしかかっているようで、本当は一歩進むのも非常に大変なことなのですよ。私が代わりに肩代わりしなければ、皆さんのうち誰も修煉することが出来ません」と話してくださいました。私は涙を流しながら師父の説法を聞いて、師父の辛さ、大変さ、これほどまでして耐えられていることを誰が理解できるでしょうか、と思いました。今日、師父が直接教えてくださったので、これからは師父と永遠に心を繋ぎ、師父の負担をもし億万分の一でも代わりに負担できるなら、死んでも後悔しないと思いました。

 登っているうちに、皆疲れて汗を書き始めたため、師父は皆のためにきゅうりを買ってくださいました。「きゅうりはとてもいいですね。喉の渇きと飢えを同時に解決できます」と言いながら、皆で笑いました。

 青城山の上に一軒の道観があり、師父は私たちを連れて中に入りました。その時師父は、現在では佛道両家を混ぜて修煉している状況を、皆に話されました。そこを離れる時、ある道士が「驚いた。この人達は普通の人ではない。すごい人達だ」と言いました。私はそれを聞いて走って行き、師父にこのことを話したところ、師父は振り向いて「この人の根基は悪く無い」とおっしゃいました。

 峨眉山は中国の四大佛山の一つです。行く途中で大雨が降り出しましたが、着く頃にはやんでいました。濃い霧に覆われ、空気は湿り冷たく、頂上の気温は更に低く、コートをレンタルするお店があちこちにありました。コートを何着か借りるかどうか、師父にお尋ねしました。師父は「防水、防寒もできるので、薄いレインコートを何着か買えばいいです」とおっしゃいました。私は10元で10着のレインコートを購入しましたが、師父は必要ないとおっしゃいました。ちょうど山頂から降りて来た大連の学習者・韓さんが、レインコートを見て、「山の頂上はとても寒く、雨も降っていて、コートを着ていてもまだとても寒かったですよ。コートもずぶ濡れになりました。これでは薄すぎて駄目ですよ」と心配そうに言いました。私はわざと怒ったふりをして「悟性が悪いですね。師父と一緒にいるので、そんなに寒いわけないでしょう」と言いましたら、韓さんもそれに合わせて「そうですね。確かに悟性が悪いですね」と答えました。

 ケーブルカーに乗って金頂に向かっている途中、ある同修が師父のそばに来て「龍がいますか!」と尋ねると、師父は指を唇の上に持っていかれ、静かにするように示されました。私が小さい声で「本当にいるのですか?」と聞くと、師父は「います。ケーブルカーの中だけではなく、外の龍もケーブルカーを下から持ち上げていますよ」とおっしゃいました。

 金頂では雨が降っていなかったのですが、霧が濃く夏の薄着の上に薄いビニール製のレインコートを着ていたのに、全然寒さを感じず逆に足元からポカポカと温かい空気が送られてきていると感じました。周りを見渡すかぎり灰色の霧しか見えなかったので、目を閉じました。段々と天目の中にテレビの枠のようなものが現れ、その後、座禅をしている金色の佛様が現れました。それが消えた後、きらきらと光る点が次々と現れては消えました。その後、何も見えなくなったので目を開けました。突然向かい側の空に沢山のそれはそれは大きな佛様が、ぎっしりと集まって居られるのが見えました。その大きさは天と地の間を覆うほど大きく、様々な姿形の佛様や観音様、釈迦牟尼佛やまた名前すらわからない神様が見えました。私はできるだけ心を落ち着かせて、静かに観察していました。しばらく経つと目が眩しくて耐えられなくなり、頭を右側に逸らしましたが、右側にも次々と大きな佛様が現れました。しばらく見ていると目が開けられないほどまた眩しくなりました。左側も同じでした。私は普段天目が閉ざされていて、何も見えなかったのですが、師父が見るようにとおっしゃった時だけ、ほぼ見えるようになりました。今日は師父の特別な恩恵を受け、心のなかで言葉に出来ない喜びを感じました。

 ホテルに戻った後、皆で交流をしていたところに、師父が私たちの部屋に来てくださったので、皆起立して出迎えました。「何が見えましたか? 言ってみてください」と師父はおっしゃいました。私は学習者の中で一番天目が開く次元が低く、口を開くことができませんでした。貴州の姜さんは「私は今日、沢山の佛様が来られたのを見ました。釈迦牟尼佛、阿彌陀佛、観音菩薩、またイエス・キリスト、聖母マリア、エホバ、八仙人、沢山の知らない神様もいました」と答えました。師父は今日、大佛はみな揃ったとおっしゃいました。私が「沢山のまばゆいばかりに光っていたものは、何でしょうか?」とお尋ねすると、師父は「それは宇宙の大爆発の光景で、天体が解体された光景が見えたのです」と教えてくださいました。確かにとてもまぶしい光が、一瞬の間に光って消えてしまいました。

 師父は「さあ皆さんに字を書いてあげましょう」と言いながら、右手の人差し指で壁に大きな「佛」の字を書かれました。私は師父の指から緑色の光が放たれているのが見えました。「この字はここに永遠に残るのですか」と師父にお尋ねすると、師父は微笑みながら「そうですよ。今後この部屋に泊まった人たちは、大きな福を得られます」とおっしゃいました。それを聞いて、皆喜んで、拍手をしました。

 30分後、ある古い学習者が入ってきて、部屋に入った途端、「あ、師父はここで字を書かれていましたね。どんな文字ですか?」と聞きました。私は「佛です」と答え、「どこだかわかりますか?」と聞くと、その学習者はベッドの横に来て、指で壁のところに大きな円を描いて「ここです」と答えました。皆びっくりしましたが、その時私はある同修から聞いたことを思い出しました。

 北京の夏は息ができないくらい暑いのです。ある学習者は太っていたため人より暑さに弱く、門の入口に座りながら「こんなに暑くては、師父も耐えられないかもしれません。もし冷たいスイカがあれば、師父に差し上げたいですね。少しでも涼しさを感じてほしいですね」と思いました。するとすぐ、他の学習者がスイカを持ってきました。その学習者は更に「もっと他の果物もあったらいいですね」と思っただけで、また別の学習者が数種類の果物を持ってきました。その学習者は嬉しくなって、「まさに心想事成(訳注:しんそうじせいとは、願ったことが全て実現する意)ですね」と思いました。この学習者が立ち上がった時、師父が突然いらっしゃり、厳しい表情で「もう十分でしょう。どこまで欲しいのですか」と諌(いさ)められました。この学習者は驚いて「あっ! 私が考えたことを師父は全て知っておられ、これからはあれこれと妄想をしてはならない」と思いました。

 楽山に行くとき、皆の写真を取るのにフィルムを一つ使いきりました。師父もご自分のカメラで学習者のために沢山の写真を撮って下さいました。皆楽しく賑やかに話していました。楽山の大仏像には破損したり、ヒビが入った仏像もありました。古い学習者は師父に「この仏像は3本めの足の指が痛く、背中に水があたり、ジメジメしていると言っていますが、どういうことですか」とお尋ねしました。私は隣でこの話を聞いて、その学習者と一緒にその仏像を見に行きました。

 その仏像の3本めの足の指には、数か所ヒビが入っていて、観光客がその上に立って記念写真を撮っていました。人間は沢山の業力を持っている上、仏像の足の上さえも踏みつけていました。私たちは更に上に登り、仏像の背中の様子を見に行きました。山の上から流れてきた雨水が、ちょうど仏像の背中のところに滴っていました。なるほどと思い、それでジメジメして辛かったのですね。仏像は仏様の一つの体であり、それであのように感じるのです。文化大革命の時に仏像を壊した人たちは、後から罰に当たった話は聞いたことがありますが、単なるうわさ話ではなく、きっとこのことが原因だと思いました。

 武漢の学習者は師父に「楽山の大仏は女仏で、15、16歳ぐらの様子で、師父に合掌し、挨拶してから『如来仏様、ようこそおいでくださいました』と挨拶しています」と言いますと、その話を聞いて師父は、私に「楽山の大仏の次元では、如来までしか認識できません」と教えて下さいました。私は当時、多くの仏道神も師父の本当の次元を知りえず、師父を如来仏だと思い込んでいるとわかりました。

 帰る時刻になり、師父は大きな声で「法輪世界の人たち、帰りますよ」と呼ばれました。初めて師父に法輪世界の人と呼ばれたので、心の中で嬉しくてたまりませんでした。

 不思議なことに、カメラは40枚も写真を撮ったと表示されているのに、まだシャッターが押せます。私は布団の中でカメラの後ろのカバーを開けて見たら、中にフィルムはありませんでした。ちゃんとフィルムを装着したのをはっきりと覚えているのに、どうして消えたのでしょうか? 全てのことは偶然ではなく、やはり私は執着しすぎたのでしょうか? それとも師父と一緒に写真が撮れることで歓喜心が生じたのでしょうか? それとも私たちの中でそれを常人に顕示しようとする人がいたからなのでしょうか? 今回の旅の途中、師父が現された奇跡がたくさんあり、天機を漏らしてはならないのかもしれません。師父は私たちにたくさんの写真を撮って下さったのだから、自分が撮った写真よりも貴重なものではないかと思い直し、皆ががっかりした様子をみて、いろいろ考えながらもそれは仕方がないことで諦め、淡々としていました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/11/4/318462.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/11/22/153780.html)