修煉に対してどれほどの気持ちなのか
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 【明慧日本2016年4月28日】修煉に対して一体どれほどの気持ちがあるのでしょうか。多くの常人たちは心から「法輪大法は素晴らしい」と黙読するだけでたくさんの福があるのです。私たち大法弟子の中でも多くの人々は若く、病気がなく過ごしていますが、まだ気持ちが良くないと感じる場合があります。法を正す修煉時間が長すぎて、なぜまだ終わらないのかと思っています。もし大法があなたの病気を取り除かなければ、それでも信じ続けますか? 修煉し続けますか? 真・善・忍の基準で自分に要求し続けますか?

 師父は「轉法輪」の中でこう仰いました。「「荒波は砂を洗う」という言葉がありますが、修煉はまさにそうで、最後に残ったものこそ真の黄金です。」 師父は99年「カナダ法会での説法」で「修煉はまさに大波で砂を洗うように、続けることのできない人が振るい出されてしまいます。残った光り輝くものはそれほど多くありませんが、それは本当の金であり、本当に圓満成就できる人です。修煉は取りも直さず、厳粛なことであり、関を乗り越え、難に遭う時は決していい加減にしてはいけません。その時あなたがどのようにその一歩を踏み出すのか、いかに認識するかにかかっており、それは極めて重要なのです。」と仰いました。また師父は「二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法」で「昔、修煉は金をふるい分けることだと言っていました。砂を流して残ったのが金なのです。」と仰いました。「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」では「この迫害の中であなたが本当の金であるかどうかが試されることになります。表に出られるかどうか、邪悪の圧力の前で修煉を続けられるかどうか」と仰いました。「二〇一四年サンフランシスコ法会での説法」では「神の角度から言えば、これは溶炉が真金を精錬する過程なのです。」と仰いました。

 理解するのはそう難しくありません、師父は真金を求めておられるのです。正法修煉は真金を精錬することです。では、炉の中で金を精錬するときに、その金は炎の中で一体どのように感じているのでしょうか? 幸せで円満な気持ちなのでしょうか? 焼ければ焼けるほど気持ちが良く、希望に満たされているのでしょうか? 苦しくないのでしょうか? きっとそうではありません。烈火が身を焼き、雑質がいつか無くなるまで焼かれてから、初めて真金が出来上がるのです。もしかしたらある人はこの火は熱すぎる、精錬する時間が長すぎる、これだけ苦しみに耐えているのに希望が見えない、などを心の中で思うかも知れず、こういう時は炉から飛び出したいという考えが出てきて、ひいては本当に常人に戻った人もいるかもしれません。このことは何億年にも渡って積み重ねた貢献や、本来の美しい結末を棒にふることに等しいのです。

 師父は、私たちが迷いの中で修煉することを要求されました。迷いの中で苦しいのは当然ですが、私たちには法があり、師父が仰った法は道を照らすライトです。私たちが学んで、信じ続ければ、どのような難関であっても法を用いて自分を導くことができます。法はこの迷いから私たちを助けてくれて、さらには私たちを守ってくれます。それなのに、なぜある同修たちは未だに天目を追求し続けているのでしょうか。常人の心を持って円満成就できるわけがありません。何千世も修煉してやっと今世で、幸運にもこの人間世界で大法を学ぶことができたのです。この迷いの人間社会では、必ず落ち込んだり、業を返す時の苦しみは感じざるをえないことです。しかしそれは私たちが歩む道ではありません。大法に従って、師父について家に帰りましょう。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/10/7/317120.html)