協調を学んだ体験
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文/大陸の大法弟子

 【明慧日本2013年9月5日】当初、私が住む地区の協調人が迫害されて家に帰ることができず、他地区に避難するようになってから、地元の同修は互いに連絡しなくなり、明慧週刊や経文も見ることができなくなりました。その時、他地区の協調人同修が私の家にやってきて、私たちと学法して交流を行ない、私たちに協力して各家に資料拠点を作りたいと言いました。資料拠点が出来上がり次第、協調の仕事も生じてくるだろうと、私はその時点で分かっていました。実は、私に協調の仕事をやりたい気持ちもありました。これは私の本性の現れかもしれません。しかし、邪悪な環境の圧力で、自分もよく修煉できていないため、迫害されることや苦労を恐れて、なかなか決断できませんでした。協調人の同修がこのため何回も家にかけつけて、根気良く私と交流し、無私と寛容の心で私を助け、黙々と頑張る姿から、私は大法の威力と大法修煉の明るい未来と希望が見えました。資料拠点が出来上がったあと、協調の仕事も始まりました。

 しかし、最初は何をどう協調すればよいか、なぜ協調するのか分かりませんでした。協調の仕事と私の内向的な性格と静かさを好む生活習慣が衝突しました。まず、私は自身の障碍を克服し、自我を放下して、法を正す修煉の道を歩まなければなりません。同修たちの交流文が私に啓発を与えてくれました。ほかの協調人同修と交流を行ない、彼らが如何にして仕事を進めているのかを聞き、よい経験を自分の仕事に取り入れました。徐々に自分の考えも開き、心の容量も大きくなりました。もっと重要なのは学法の時間を増やし、重視するようになったことで、心が落ち着いてきて、抱えていた問題も答えが浮かんできました。

 協調の当初、やってみようという試す心があったため、試練がやってきました。ある日、他地区の同修が現地のあるお年寄りの同修に新唐人テレビのアンテナを付けにやってきました。しかし、同修の家に向かう途中、協調の同修と主人がもう一人の同修の家に寄って相談し、先に寄った同修の家につけてみることになりました。協調の同修は、2、3日後に様子を見に行って、アンテナの状況を確認してくださいと主人に頼みました。しかし、主人は調節する手順を忘れて、私に行ってほしいと私に回してきました。そのため、私が同修の家に行くことになりました。行ってみたら、この同修はこれはだめ、それは問題だとか、いきなり私に怒りだして、どういう話でつけたか具体的な状況は私に分かりませんでしたが、しかし、確かにあなたが同意した上でつけたのだから、わけも分からずに私に怒るなんてと、心の中で不平に思い、あまりにもやりすぎだと思いました。この時、前任の協調人の苦衷、困難と難しさが内心から分かって、涙を流しました。同修の理智のない行動は、私の業力によるものだと認識しました。旧勢力が私の業力を利用して私を高めるために強制的に迫害を加え、私に協調の正念を諦めさせ、大法弟子が衆生を救い済度することを破壊しようとしていました。邪悪の目的を見破って、私は心性を守り、心を静めて、同修の指摘と不満を聞き、法に基づいて同修と新唐人テレビの作用と意義を交流しました。同修は態度を変えて、笑いながら、「ごめんなさい。こんな私を許してください。もう一回取り付けてください(すでに外してしまっていた)」と言いました。同修のこの劇的な変化を見て、法の偉大さと不思議さを感じました。今回のことを通して、大法弟子は法を実証するたびに正念をしっかりと堅持しなければならない、法に基づいて、絶えず内に向けて探せば、心性を守り、自身を正し、大法が与えてくださった智慧を用いれば、邪悪の手口を見破り、旧勢力の行為を否定して、法を正す道を歩むことができると体験しました。

 協調の過程で、私は頼りたい心、恐れる心があり、自分を守るために、多くの同修とあまりふれあいたくありませんでした。ある同修が私に、もう一人の同修の修煉状態がよくないと言及したとき、私ははっきりと誰々さんに助けてもらってくださいと言いました。話の途中で、同修は不満でとげとげしい言葉で、「誰にやってほしいと望んでいるのですか?」と言いました。私は返す言葉がなく、すぐに内に向けて探し、家に帰る道で、師父の「オーストラリアの学習者への説法」が耳の辺でこだましました。頼りたい心、恐れる心を放下して同修を助けるべきだと悟り、その後、指摘してくれた同修と一緒にその同修の家に行きました。私は法を思い出しながら、雑念を取り除き、穏やかな口調で修煉の中の問題を交流しました。同修は感激して、「あなたは変わった。以前のあなたはこうではなかった。今回あなたと交流して、私の心も体もとても気持ちいいです」と言いました。私は「これは大法の威徳です」と言いました。同修の家から帰る時、同修は遠くまで送ってくれて、よく来てくださったと、名残りおしい気持ちでいっぱいでした。同修には集団学法の環境がないからとても気の毒だと思いました。私と一緒に行った同修もそれから心性を高めて、私に「あの同修の家はもう行かなくていいですよ、私が行きますから」と言いました。

 ある日、一人の同修が警察に連行され、救援活動が始まりました。他地区の同修は近距離で正念を発して、他の空間の邪悪を取り除くことに協力し、その家族の同修は迫害を加える会社、関連部門へ真相を伝え、上告書を送りました。3カ月かけて、人力と物とお金を使いましたが、同修は判決を下されました。この現実と私たちが最初に想定した結果との間に大きな差が生じました。この差は私たちの心性と関わっています。まず私は同修とのトラブルにより、不満、指摘、嫉妬、自我、傲慢などの人心が生じ、全体の環境に正しくない要素を増やし、全体の力を弱めてしまいました。高める時に高まることができず、人心を生じ、膨大させてしまったため、人心で法を正すことに対処すれば、結果がどうなるか考えれば分かるのです。

 もう一つの出来事は、ある日、主人と同修が真相ステッカーを貼りに行きましたが、真相が分からない人に通報され、不当に連行されました。この事を知ったあと、同修たちの協力の下で、その晩すぐに国保大隊隊長の家へ行って迫害しないように警告しましたが、邪悪要素の妨害で、彼は全然聞き入れませんでした。家に帰る道で、気持ちが重くて、自信がなくなり、自分の修煉があまりできていないから、背後の邪悪を解体できず、主人を助けられないのだと思いました。しかし、これは名利心ではないかと突然意識しました。家に着いて、続けて内に向けて探し自分の修煉状態を考えてみると、主人を尊敬せず、理解せず、不満や指摘をすることで邪悪に隙を与え、乗じられ、邪悪がこれらの人心を利用して、われわれが法を実証し、衆生を救い済度することを破壊し、私たちを落とそうとしていました。内を探せば探すほど、私は泣きだして、心の中は残念な気持ちでいっぱいでした。尊敬、理解などは、全て中華民族の伝統美徳ではないか、これからは主人、同修、他人を尊重する気持ちを学ばなければならないと思いました。前回からの教訓を得て、心を静めて学法し、正念を発して、衆生を救い済度し、同修を助けるという基点を正して、常人に善で対処する心理状態で、怨むことなく、子供を連れて「610弁公室」の責任者の家に行き、誠意と善良の心で彼と交流しました。私の誠意と善良に彼は感動して、彼は家を出る時、人を釈放すると約束しました。この期間中、ずっと内に向けて探して人心を取り除き続けたあと、主人と同修は帰ってきました。

 協調を学ぶ過程は法を実証する過程であり、心性を向上させる過程でもあります。以上は個人の体験なので、ご指摘を願います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/7/28/277250.html)
 
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