台湾法会|快適な場所から飛び出し困難を恐れずに進む
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2024年12月10日】

 師父、こんにちは!  

 同修の皆さん、こんにちは!

 3Dバックスクリーンのデザインに携わった修煉体験を皆さんと共有したいと思います。

 私は2000年に修煉を始め、美術を学び、専門は映像編集でした。2001年に貯金を頼りに米国に行き、空いた時間にチャイナタウンでアルバイトをしながら、ニューヨークの新唐人テレビの設立を手伝いました。5年の月日が経ち、幸運にも2006年に初めて開催された全世界華人新年祝賀祭の舞台背景デザインに参加することができました。

 新唐人新年祝賀祭の演出準備の初期段階で、幸運にもリーダーから3Dアニメーションの飛天馬(訳注:空を飛ぶことができる神獣。翼を持ち、馬のような姿をしている)を作成したいという話を聞きました。私は美術系の油絵を専攻しており、卒業以来ずっと2Dの芸術しか経験がありませんでした。3Dアニメーションは、学生時代に学ぶ機会はあったものの、計算された美しさが性に合わず、何となく避けてきた分野でした。ニューヨークのテレビ局で働いていた頃、唯一の楽しみは34番街で映画を見ることで、多くの映画が3D特殊効果で制作されており、今まで実現できなかったような壮大な想像力を表現していました。それを見て、ようやく3Dアニメーションを学ぶ決意をし、飛天馬を完成させるまで諦めないことを誓いました。

 3Dアニメーションを学んだ時は、最初の段階で少しだけやってみたのですが、やはり難しすぎてすぐに諦めていました。ところが、今回この仕事の話が来て「やらなければならないことは、結局避けることはできない」、「私は大法弟子なのだから、必ずやり遂げなければならない」とようやく考えがまとまりました。

 師父は『轉法輪』の中で「耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗花明又一村』というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」と説かれました。

 そこで、今回は3Dアニメーションを必ずマスターして、飛天馬を作り上げたいと思いました。

 飛天馬を作るには、まず馬のモデルが必要になります。当時の3D素材は、今のように豊富に手に入ったり、簡単にダウンロードできるような状況ではありませんでした。そのため、自分でコンピューター上で馬を彫刻する方法を学ぶ必要がありました。たくさんの参考画像を集めて、彫刻の勉強を始めましたが、平面的な美術しか経験のなかった私には、全く歯が立たず、彫刻がいかに難しい作業かということを痛感しました。そこで、彫刻の教本を探して読んでみると、それらの技術を習得するには数年もの訓練が必要だということが分かり、絶望的な気持ちになりました。しかし、今回は絶対に諦めるわけにはいきませんでした。そして、私は毎日勇気を振り絞って彫刻の勉強を始めました。

 日一日と過ぎ、周りの人たちはそれぞれ違うことをしているように感じました。時々、自分が何をしているのか分からなくなり、心もとない気持ちになることもありましたが、一方で、彫刻の技術も少しずつ向上しているように感じました。基本的な彫刻をマスターした後、今度は素材の設定という、さらに複雑な段階に入りました。反射率、皮膚の透明度、毛髪の特殊な質感設定、生物的な質感の設定など、まるで物理の世界に足を踏み入れたような感覚で、とても戸惑いました。そんな中、35歳になった私は顔中にニキビができてしまい、まるで自分が知っている世界からかけ離れてしまったような気がして、憂鬱症になりそうでした。「このまま続けるべきか、それとも諦めてこれまで費やしてきた時間と労力を無駄にすべきか」と考え始めました。

 幸い私はずっとニューヨークのテレビ局の同修と一緒に毎日一講ずつ学法していました。法を学んだ後には、いつも洗われたように清々しく、励まされているように感じました。難しさを感じても、長くそれを引きずることはありませんでした。「とにかく前に進み続けさえすれば、必ず乗り越えられる」と心の中で強く思いました。こうして毎日を繰り返していくうちに「この仕事は私の理解を超えている」と感じましたが、それでも私は前進し続けました。

 素材の制作を終えて、ひと息つき、馬を動かすための簡単な技術があるに違いないと思いました。しかし、当時はAIのような便利なものはなく、すべて手作業で、1コマ1コマ、アニメーションを調整しなければなりませんでした。しかも、アニメーションを調整する前に、まず馬の骨格を組み立てる必要がありました。つまり、馬の各骨格がどのように動くのかを理解し、完成した馬の彫刻に一つ一つの骨を設定し、それを一つずつ動かしていくことで、馬を動かすことができるのです。まるで医学や生物学の研究をしているような感覚で、私は途方に暮れました。この道のりは一体どれほど長く、険しいものなのか。一緒にアニメーションを作ろうと誓った同修たちは、生活のためにやむを得ず途中でやめてしまい、残ったのは私一人になっていました。それでも、私は諦めませんでした。

 私は馬の骨格の動き方を徹底的に研究し、たくさんの資料や映像を見て、ようやく骨格を組み立てることができました。次はアニメーションの作成でした。しかし、1秒間に24コマ、つまりコマごとに絵を描き変える必要があるため、膨大な作業量に圧倒されました。一人で全てを行うのは不可能だと感じ、誰かの助けが必要でしたが、周囲には頼れる人がいませんでした。唯一頼れるのは有料のオンライン講座でしたが、当時はYouTubeのように気軽に無料で学べるような環境はありませんでした。たとえあったとしても、一連の制作過程を網羅した教材を見つけるのは難しかったのです。物理学や解剖学など、全く経験のない分野に足を踏み入れて、私はもう限界を感じていました。1コマごとに絵を描き続ける作業は、苦痛で孤独で、絶望感に満ちていました。しかし、ここまで来て引き返すわけにはいきませんでした。

 最終的に私を支えてくれたのは、やはり学法でした。法を学ぶと、悲観的な気持ちが少しずつ消えていき、多く学べば学ぶほど、その気持ちは薄れていきました。そうして、私はついに「走る馬」を作り上げることができました。しかし、現実世界の馬には翼はありません。そこで、大きな翼を新たに作る必要が出てきました。同様に、多くの画像や翼の骨格構造を参考に、アニメーションを分解し、造型を作り、材質を設定する……といった作業を一つずつ行い、最終的に翼も完成させることができました。何度も同じような作業を繰り返し、まるで意味のない場所でぐるぐる回っているかのような感覚に陥ることが何度もありました。しかし、後から振り返ってみると、上から見ると同じ場所でぐるぐる回っているように見えても、横から見ると立体的な螺旋を描いており、まるでバネや立体駐車場のようでした。実際、技術と理解は確実に深まっていました。何度も繰り返すことで、少しずつですが、以前の自分よりも成長していました。

 飛天馬が完成したと感じ、しばらく眺めてみると、なかなか良い出来栄えだと思いました。きっとみんなが驚くはずだと確信し、あるリハーサルの時に舞踊に合わせて上映してみました。

 上映の結果は、全く予想外のものでした。会場全体にどっと笑いが起こり、何が起きたのか分からずにいました。尊敬している振付の先生が私に「あれは飛天馬じゃなくて、飛天犬だよ、ハハハ!」と言いました。

 後でじっくりと見直してみると、確かに飛天犬のように見えました。私はただ自己満足に浸っていて、自分の作品を美化していただけでした。「あばたもえくぼ」ということわざの通り、同じものを長く見ていると、欠点が見えなくなってしまうのです。これは本当に「自分の主観的な視点に囚われ、客観的な事実を見落としてしまう」ということでした。今になってみれば、確かに飛天犬のように見えると分かります。そして、結局、その動画は採用されませんでした。

 私はとても悲しくなり、こんなに頑張ったのに、こんな結果で終わってしまうなんて、本当に心が折れそうでした。もう何もかも投げ出したくなりました。こんなことは、これまでの人生で私が予想していたことをはるかに超えていました。私はただ夢を追いかける、どこか現実離れした少年だったのだと思います。そんな時、父が危篤状態になりました。ちょうど祝賀祭の演目の直前だったのですが、主要な背景デザインがまだ完成していなかったので、台湾に帰ることができませんでした。私には6人の姉がいますが、なぜ私が父の最後の時間を一緒に過ごせないのか、全く理解してくれませんでした。翌日、父は息を引き取りました。

 最後のリハーサルの前夜、天国の背景を作らなければならなくなりました。天国がどんな場所か分からず、どうすれば良いのか悩みました。夜中の3時、4時になってもアイデアが浮かばず、心から深い苦しみを感じました。父親に最後の別れを告げられなかったこと、そして自分の無力さ、絶望感に打ちひしがれ、涙が止まりませんでした。いつの間にか眠りに落ちてしまい、不思議な夢を見ました。私はパソコンの前に浮かび上がり、ゆっくりと上昇していきました。そして、霧が立ち込める美しい五重塔を通り過ぎ、雲海を抜けると、無限に広がる美しい城門が現れました。城門の中には多くの人々がいて、彼らは地球人とは全く異なり、優しくて清らかでした。そこには苦しみも憂いもありませんでした。私は言葉では言い表せないほどの愛に包まれました。それは広大で無私の愛の光とエネルギーでした。私は再び涙を流しましたが、今度は喜びの涙でした。目が覚めると、頬は涙で濡れていました。私はすぐに、夢で見た美しい光景を、自分の技術で表現しようと試みました。

 その後、リハーサルで「天国」という作品が皆に認められ、私は今まで感じたことのないような励ましの気持ちを受けました。このほんの少しの励ましが、私にとってどれほど大きな意味を持っていたでしょうか。それは、決して一人じゃないんだ、誰かがひっそりと私を励まし、支えてくれているんだと気づいたからでした。私はとても幸せで、孤独を感じることがなくなりました。

 その年の公演後「飛天馬」と3Dアニメーションのことは、誰も話題にしなくなりました。でも、私は途中で諦めることができませんでした。3Dアニメーションを完成させたいという気持ちは、まだ強く残っていました。なぜなら、3Dアニメーションで制作された「飛天馬」は、みんなにとって貴重なヒントになるはずだと信じていたからです。しかし、私は大きな問題に直面していました。テレビ局に残っていれば、広告制作の仕事を手伝わなければなりません。あの「飛天犬」の出来事があったので、テレビ局に3Dの研究開発をさせてくれるよう頼むことはできませんでした。自分自身でも、成功するかどうか確信を持てなかったからでした。

 テレビ局を辞めた私には、わずかな貯金しか手元に残りませんでした。ニュージャージーで1カ月の家賃が200ドルの地下室に住むことにしました。これが、私が払える限界の住居でした。この家は雨漏りがして床が水浸しになることがあり、ベッドは脚が3本しかなく、残りの1本は何かで代用しなければなりませんでした。しかし、文句を言うような状況ではありませんでした。その時はただ一つ「飛天馬」を完成させるという目標しかありませんでした。

 そして「飛天馬」を完成させるためのすべての要素を、より洗練された形で作り直すことにしました。というのも、これまでのものはあくまで詳細が煮詰まっていない状態でしかなく、もっと完成度を高められると思ったからです。例えば、馬の造形はもっと美しく、素材はよりリアルに、そしてアニメーションは生命力が溢れるように。そうして、一つ一つ丁寧に作り直していく作業を繰り返しました。数カ月が過ぎ、私の資金は底を尽きました。台湾にいる母親に支援を頼みました。私の家は決して裕福ではありませんでした。母親は、私の保険を解約すれば少しお金になるかもしれないと言いました。十数万台湾ドルでした。そして、母親は私にそのお金を送ってくれました。母親の支えに心から感謝しています。母親のおかげで、私は「飛天馬」を作り続けることができました。

 しかし、費用のほとんどは教材の購入に充てられました。私の英語力は非常に低く、若い頃にもっと努力しなかったことを深く後悔しました。英語を早くマスターし、3Dの基礎を固めておけば、今頃はもっと楽だったろうと思いました。チュートリアル動画を見る時、何を言っているのか全く理解できず、画面上のマウスが指すところに合わせて操作するだけでした。Ctrl、Option、Shiftなど、同時に押す必要があるキーも、何を言っているのか分からず、ただ当てずっぽうに試行錯誤を繰り返しました。そのため、テレビ局を退職した時、同修に自分が何をやっているのかをうまく説明できず、一人ぼっちになってしまいました。それでも、毎日『轉法輪』を一講ずつ学びました。『轉法輪』には、言葉ではうまく説明できないような深い理解と、私を前向きにさせてくれる力がありました。

 このようにして、ほぼ1年という月日が流れました。ある日、私は飛天馬が完成したと感じました。主観をできるだけ排除して見たところ、もうこれは犬には見えないし、以前よりもはるかに完成度が高いと感じました。もうこれ以上、私には何もできないという限界に達した気がしました。

 その日の晩、私は不思議な夢を見ました。自分がとても低い場所にいて、高く遠くの上空に壮大な雲が広がっていました。その雲の後ろから、大きく深遠な声が聞こえてきて、まるで私の名前を呼んでいるかのようでした。しかし、私は「そんなはずはない」と心の中で否定しました。自分はとても低い存在なのだから、自分がそのような重要な存在であるはずがない。そう思い込んで、顔を伏せ、聞こえないふりをしました。きっと気のせいなのだろう、と。しかし、隣にいた同修が私に「ねえ、君の名前を呼んでいるよ」と教えてくれました。恐る恐る顔を上げると、雲の後ろから万丈の光が放たれていて、その光に包まれて私は目が覚めました。翌朝、テレビ局の上司から電話があり、3Dバックスクリーン制作の支援要請がありました。3Dアニメーションができる人材が必要とのことでした。私は、長いトンネルを抜けて、突然光を見つけたような気持ちになりました。どうして私がアニメーションを作れることを知っている人がいるのでしょうか? 誰もここに来たことはないし、誰にも言ったこともないのに、です。こんな奇跡のようなことがあるのでしょうか? 後になって、これは慈悲深い恩恵だと理解しました。私は決して一人ではなかったのです。

 その日から、私は12年間3Dバックスクリーン制作を支援し、制作スタッフを育成してきました。

 コロナ禍の影響で台湾に戻り、新たに立ち上がった二つのプロジェクトに参加することになりました。どちらも非常に困難で、ほぼ不可能な任務と言えるようなプロジェクトでした。しかし、私はこのようなプロジェクトに参加することを恐れることはなくなりました。師と法がある限り、私たち自身は大きな力を持っているわけではありませんが、心を静めて法を学び、自分を正しく修め、困難に直面しても前進し続ける限り、必ず達成できる日が来ると悟ったからです。

 以上が私の修煉経験です。何か不足な点があれば、慈悲深いご指摘をお願いいたします。師父、ありがとうございました! みなさん、ありがとうございました!

 (2024年台湾法輪大法修煉体験交流会の発表文章)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/10/28/484335.html
 
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