文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年6月7日】新経文の『大紀元と新唐人テレビ法会での説法』は何度か学んでいますが、学ぶたびに違う悟りがあり、自分とのギャップがどんどんわかってきて、毎回新しい理解を得ることが出来ました。人を救うという目的を達成するためには、大法弟子しかいないということが修煉者にはよくわかります。実際、師父は以前から何度も何度も説かれているのですが、私たちはただ忘れてしまい、法を学ばず、常人と混同してしまい、混乱してしまうのです。
もちろん、末法の時期の社会で、自分の考えを変えずにいられる人がどれだけいるでしょうか? それは難しいのです。実際には、多くの同修は非常によく修めてきましたが、すべてを知っていて、彼らを邪魔することはありません。黙々と三つのことをよく行っています。また、自分は非常によく修煉したと思い込んでいる同修もいます、常に常人の名声、利益や情などを追求していますが、これらの執着は修煉の重みを長い間かき消してきました。修煉とは何か、なぜ修煉する必要があるのか修煉の結果とは何か、それは長い間考えられていませんでした。多くの同修がどんどん堕ちていきました
常人に希望を託すという教訓はたくさんあります、常人に希望を託すということは実は私達の修煉がまだ十分に成熟していない、そこにはどれだけの安逸心、依存する心、求める心が含まれているのか、これらの執着心を私たちは常に手放したくないのです。
修煉には近道はなく、自分自身を地道に修煉するしかありません。人を救うことも同様で、純粋なものはすべて新しい宇宙が求めているものであり、新しい宇宙に存在する価値があります。
古い宇宙の理、旧勢力の撹乱は、古い宇宙の生命を混乱させることしかできませんが、大法に真に生まれた生命は影響を受けず、乱されることはありません。旧勢力のトリックはピエロのようなもので、旧勢力の仕業は、まだ良心を持っている生命の目覚めのためだけにあります。混沌とした中で修煉すればするほど、神聖なものになります。身も心も完全に入れ替わった時の私達は、今まで以上に良い状態になり、本当の自分を取り戻すことができます。
適当でない所があれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。