文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年10月19日】最近、多くの同修が法を暗記しており、皆は互いに高め合うことによって、明らかに良い成果を得ていす。しかし、不足もあります。例えば、スピードと量だけを追求する同修がいて、法に照らして内に向かって探すことはほとんどありません。一部の同修は法を覚えるだけで、師父の他の説法をほとんど読まず、法輪功迫害の実態を伝えていないのです。また、一部の同修は師父の説法の中で同じ言葉が何回使われ、何回句読点が使われているかに注意を払っています。
1999年の迫害の前には、私たちの地元でも深刻な教訓がありました。ある学法グループは誰それを手本にして、1日「三講」を学び、その後、学法グループの間で、競い合うようになりました。1日「九講」を学び、いわゆる「集中読書」になった時もありました。法の勉強は形式だけを追求していたため、実践的な修煉を重視せず、内に向かって心を修めることを重視していませんでした。そのため、協調人の間には多くの問題がありました。最終的には、この問題を師父にまで持ち込んで、紛争の解決に協力してくださることになりました。それでも、地域の協調人の中には、法に基づいて内に向かって探さない人もいて、長い間、解決しない紛争が続いていました。人心がなかなか取り除けないため、迫害が始まってから、協調人はいわゆる「転向」を主導し、邪悪を助けて大法弟子がやってはいけないことをたくさんやって、邪に悟り、まだ引き返せない人もいます。
私の知り合いの修煉者は、皆と交流する際に師父の説法を一字一句引用し、皆は彼が法を良く勉強できていると思っていました。私は刑務所に不当に拘束された時、警察官は「あの人をみて、彼は『轉法輪』の本を一字も間違えないように、完璧に暗唱できます。どうですか? 彼はよくできているでしょう、しかし、彼も『転向』しました」と言われたことがあります。私は警察官に「大法は修煉のためのものであり、ただ暗記するためのものではないのです。法に基づいてこの心を修めなければ、何もならないのです」と話しました。
師父は「本を暗記するようになってから、学習者は事後に対照するのではなく、事前にやるべきかどうかが分かるようになりました。これは非常に素晴らしいことです」[1]、「目的は何でしょうか? 即ち法に対する理解と認識を深めるためです。こうすれば学習者の向上に対してとても効果的なのです。なぜなら、彼はすでに思想の中に深い印象があったので、行動の中で何かの事をやる時、いつも煉功者の基準により自分を要求することができるから、確かに違うのです」[2]、「法を学びて法を得る 比べて学び比べて修す 事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」[3]と説かれました。法を読み、写し、覚えることの目的は、法をよく学び、それを実践の指針とし、心を高め、最終的には実際の修煉を通じて人心や様々な執着を取り除き、次元を向上し、圓満成就することになると考えています。
師父は「私が以前悟りについて語った時、誰にも言わない天機を言ったことがあります。それは『修は己にありて、功は師にあり』ということです。千年も百年も自ら修煉していて、自ら高めていると思っていても、実はいくら修煉しても、何もできないのです。面倒をみてくれる師がいなければ、何も解決されません。つまり、本当の問題は師によって解決され、法の背後の要素によって解決されるのです。自分の悟りというのは、修煉の中で困難にぶつかって、克服してから引き続き修煉していくことです。これがあなたの悟りと言います。本当に理から何かを悟ります。もし、この法があなたに分からせないならば、あなたが如何に悟りたくても悟ることはありません。ですから、必ず一つの条件を備えなければなりません。即ちあなたは必ず真に修煉していかなければならないのです」[4]と説かれました。
次元が限られており、適当でないところがあれば、慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「広州で全国一部分の輔導站責任者に対する説法」
[2] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「北京法輪大法輔導員会議での提案」
[3] 李洪志師父の詩: 『洪吟』「着実に修める」
[4] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会での説法』