生死を語る
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2020年11月2日】子供の頃、私は母から「遅かれ早かれ死ななければならないなら、生きている意味があるのか? 私は死を恐れていないようです」とよく聞いていました。

 私にとって生死は手放すようなもので、何度か迫害されて気絶して生き返ったことがありますが、死を恐れていない、死に対して何の感覚もありませんでした。「死すら恐れていないのに、他に執着するものがあるのか?」とよく自問自答しています。

 一度は警官に連行され、警官に黒い頭巾を被せられて山村に引きずり込まれたこともありました。警官は「白状しなければ、お前を殺して誰にも知られない、この山に埋めてやる」と言われて、私は「それならば、私は死を選びます」と答えました。

 拷問を受けたあと、私は「どうやって死ぬかを選択できるなら、私は死を恐れていないから、ただ拷問によりもたらされる苦痛に耐えることを恐れています」と考えていました。時には、拷問により死んだ後に生き返ることもありますが、生死については本当に何も感じませんでした。

 自分の死を恐れずの裏には、常人のような苦痛に向き合いたくない、苦痛から逃れるという潜在意識があるため、自分にとって楽な道(死)を選ぶということが、今日の私にはわかりました。この観念は、人の生死に対して恐れずに、生と死を捨てることさえ恐れないようにします。これは法理を理解していないことの現れです。実は自分の執着心を覆い隠したい、自分の肉身で偽りの自己を守り、その背後にある執着を自分の肉身で遮ったことで、自分の観念だけが生き残ったのです。私たちは純粋で寛大で、無為な生命であるため、このような考えがあってはいけません。

 自分なりの認識であり、法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/10/26/414195.html)
 
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