文/安徽省の大法弟子
【明慧日本2020年11月15日】現在社会ではネットショッピングが流行っています。便利で、出かける必要がなく、家のソファに横になりながら、携帯を手で動かすだけで、気に入るものが買え、お店の方から直接玄関まで届けてくれるのです。現在ネット上の品物は様々で、買いたいものはなんでも買え、価格もほとんどデパートより安いのです。
お金で買い物をすることは正常な行為ですが、修煉者としてネットショッピングをうまく把握できなければ、妨害されやすいのです。師父は「インターネットは魔が世を乱し、人間を巻き込むための渦です。全人類を巻き込んで壊滅させようとしています」[1]と説かれました。つまり、WeChatや、オンラインゲーミング、アイドルサイトなどを指しています。現在ネットショッピングも同じではないかと感じています。修煉していない常人もネット通販が魅力的だと思い、それを控えるために、ネット通販で使えるお金を携帯に多く入れないようにしています。知らないうちにお金を使ってしまい、買ったものも結局必ず使うとは限らないからです。
私は長い間ネットショッピングの妨害を受けていました。知らないうちに、貴重な時間を浪費してしまい、今考えるだけでとても心が痛みます。最初に買い物の需要があったのは、家に子供がいるためでした。ネットで買い物すると便利で安いとスマートフォンに変えました。使い始めたら、アプリケーションをダウンロードして、スマートフォンを開き、「あら、品物はとても多い、このネットショップのものはきれい、あのネットショップの品質はいい、これもこんなに安い、損をしないために3カ所のネットショップを見比べて購入しようと考え、実は三つどころか、10や20も見て、やっと品物を購入します。携帯を置くと、食事の時間になりました。学法もまだしていないし、どうしましょう。次回から注意しようと自分に言い聞かせます。
食事の時間になると、時間を節約するために、食事をしながらも携帯をいじって、必要なものはないか、さらに安いものはないか、トイレへ行った時でも、時間の無駄がないように携帯を見ています。結局食事が終わって、トイレから出ても、携帯をまだ手に持っています。選びたいものがまだ決まらず、実際はそれらのものは買っても買わなくてもいいのですが、どれほど多くの時間を使ったか、次回は絶対にもうしないといつも思うのです。
今日は、法を2ページ学んで疲れ、とても眠かったので本を置き、いつの間にかまた携帯を持ち出し、ネット通販サイトを開いてしまうのです。家に何も足りないものはなくても、少し見ると、ものがいっぱいが出て、眠気もなくなり、疲れもなくなります。「この服のデザインがいい、出かけるのにちょうどいい、質もいいし、とても安いといろいろ見てしまいます。今回これがいいと思って買うと、次回またさらに良いもの、さらに安いものが出てきて、きりがありません。師父が説かれたように「現代人が行動様式の良し悪しを区別できないとき、それはあなたの考えが負の要素によって制御されているからです。表面から見ればあなたの行為に何の違和感もなく、あなたは自分の考えが自然に生じたものとさえ感じています。あなたは自分で考えたものと、外来の要素によって制御され生じたものを区別することができず、欲望の赴くままに走らされたのです。それらのものはあなたの好みに合わせてあなたの興味を引き立てています。このような環境での修煉はあまりに難しいのです」[2]
決心をして、スマートフォンを使わなくなりましたが、今度は疫病がやってきました。家族のために買い物をしたり、スーパーへ行ったり、銀行に行ったときに、みな健康コードをスキャンしなければならないので、またスマートフォンを使いだしました。利益の心、物欲に対する執着心を放下できていないため、妨害がまたやって来ました。師父は「その心を捨て去ることができなければ、何も捨てられません」[3]と説かれました。学法用の電子書籍、iPadや、MP3を買うのも似ています。どれが実用性が良いか、どれが携帯しやすいか、どれが待機時間が長いか、さまざまなフォーマットに対応できていると言われて全部買いました。同修の誰かが必要なときにあげられるということを口実にしていますが、自分も備品として使おうと思い、時間は全部これらのことに使ってしまいました。自分の真の修煉はどうなっているのでしょうか? 師父が説法の中で言われた『私のお碗は銅のものだ、私のお碗は玉のものだ、私のお碗はきれい、私のこのお碗は銀のものだ』と比べ合っていた話を思い出しました。お碗をたくさん貯めた和尚も出てきたことに、とても似ているのではないでしょうか。
慈悲なる師父は意気地のない私を見て、ある日私の頭に『ミラレパ佛の修行物語』の中のミラレパ佛が白壁洞窟で修行したときに歌った誓いの歌を、頭に映してくださいました。「悟りを開く前に、私はここに留まることを誓う。 寒さと飢えで死んでも、衣食を求めに行かない。病気で死んでも、医者を求めに下山しない。苦を耐えて死んでも薬もいらない。この肉体のために世間の利益を一瞬たりとも求めない。肉体と口と意を以って大覚者の位を目指す」。つまり、ミラレパは「もし私が成就せず、悟りを開かなかったら、餓死しても下山して食べ物を求めに行きません。凍死しても下山して服を求めに行きません。病死しても下山して薬を求めに行きません」と、徹底的にこの人生とこの世のすべてを切り離すことを決心しました。三つの業(身、口、意は三つの業)に動じず、一心に佛を修め、師父のご加持を願っています。「この誓いに背くなら、正法を修めない人身を残すよりは、死んだ方がましです。一旦誓いに背くならすぐにでも私の命を断絶させることを願います。私が死んだあと、師父のご加持で来世で正法を修めることができる人身をくださいますようお願いします」という意味を語っていました。
もちろん私たちは常人の中で修煉しており、形式的にもここまでしなくてもよいのですが、「心を修め、欲を断ち」に対する要求はさらに高いのです。必ず物欲の執着を放下して清浄な心で修煉が可能になります。私たちは宇宙で法を正す重要な時期に身を置いています。一刻が千金や万金の価値がある時期なのに知らず知らずのうちに物欲や、利益などにコントロールされ、どれほど貴重な時間と衆生を救う時間を費やしたのでしょうか。考えてみるだけで恥ずかしくてしようがありません。最初に法を得たばかりの状況を思い出しました。その時は、まだ時間を大切にして、修煉に専念しましたが、現在どうして逆に怠けてしまうのでしょうか。衆生を救うことも妨害され、師父の慈悲なるご加護の下で窮地を脱したのですが、師父のご恩に背きとても恥ずかしく思っています。
最後に師父の法で皆さんとお互いに励まし合いましょう。「師父はもう一度言いますが、皆さんの時々刻々が修煉の道にあり、時々刻々、私が皆さんを管理しています。自ら妨害を招いてはいけません。最後の残り少ない道をしっかり歩んでください」[4]
適当でないところがあれば、慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
[2] 李洪志師父の経文:『大法伝出二十五周年ニューヨーク法会での説法』
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の経文:『再び棒喝』