文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年11月22日】今まで「真」とは誠実で、信頼性があって、人を欺かないことだと認識していたのですが、最近、ある出来事から自分の今までの認識は不十分で「真」の内包は比類のないほど大きいものだと悟ることが出来ました。
ここ最近、収入が不安定だった為、ネットで書記のバイトを見つけました。雇用側から採用試験用に二篇の原稿提出を要求されました、通過すれば、採用されるのです。私は募集要項を大まかに読み、すらすらと原稿を書き終えました。終った後、原稿にはテンプレートが添えられていたことに気づきましたが、校正しないまま、宛先に送りました。「本業ではないので、校正は煩わしい事だ、採用されなくても気にすることはない」と思ってました。
採用側からの返事が届きました「大変よく書けています、しかし、フォーマットが要求通りではありません、今後、採用される期間中に、これはとても重要な部分ですので、くれぐれも注意してください」と書かれていました。そして、私は採用されました。
正式に原稿をおこし始めて、以前より確実に真剣に取り組みました。しかし、依頼主の要件を一文字ずつ確認していなかったがゆえに、書き終えた後にいくつかの問題点が見つかりました、しかし、原稿を修正した箇所もあれば、面倒なので修正しなかった箇所もありました。しっかり確認しなかった依頼内容もありましたが、手間なので、校正しないまま交付してしまいました。「編集長が校正してくれるはず」と甘い考えでした。
結局、二日間続けて交付した私の原稿に対し、編集長が修正を加えました。3日目に、採用側は「暫くの間、依頼がないと告げられました」、私はその言葉を信じていましたが、「一部の原稿が標準に達していないため、依頼することを辞めました」と編集長の偶然な一言を聞き、私の原稿が気に入らないから依頼しなくなったことに気付きました。
このことから自分に存在する問題を反省させられました。ここ数年、自分が仕事に対する真剣さが欠けていたため、自分或いは他人にかけた迷惑は少なくありません。よくよく考えて見ると、以前勤務していた会社に10万元(約158万円)ほどの損失をもたらした事もありました。しかし、徹底的にこれは自分にとって非常に大きな問題であると反省したことはかつて、一度もありませんでした。常人が言う「真面目」という事が私達にとって、実は「真」を修める過程で、ある次元の基準です。
小学生頃の私は学習態度はとても「真面目」でした。宿題はもちろんのことですが、夏休み、冬休みの宿題も満遍なく完成させました。解けない問題があれば、両親に上級生の家まで教わりに連れて行ってもらいました。上級生の先輩達、自分の先生、同じ村に住むほかの先生等の家に、問題を完全に解けるまで、何度も足を運びました。
テストの時、答案用紙を書き終えても、用紙を提出しません。終了のベルが 鳴るまで繰り返して見直します。先生が私の頭を撫でながらクラスで「みてごらん、試験は某君みたいな姿勢で対応すれば、高得点を得ることが出来る」と話されたことが私の記憶に残っています。
小さいころの私は純粋でした。どんなことでも専念してやり遂げました。定力が強く、雑念もなく、ましていい加減に仕事を誤魔化そうとする考えはなおさらありません。それは人間本性の純真な一面だと思います。このような状態で成したことは自分の最も「真」な状態で成したことだと思います。
私達は社会の様々な良くない時代の観念に染められ、特に功利を求め、目的の達成しか問わない中国共産党文化の誘導の下で、私達の内心も軽率になり、過程を重視せず、功を焦り、いい加減なやり方を用いる時に、かえって目的達成に影響をもたらします。しかも、修煉者にとって、もっと恐ろしい処は、私達の落ち着かない心、安逸心、他人のために考えられない心等が助長されてしまいます。その過程において、心は非常に不純な状態に変っていきます。
その不純な心は修煉の中でも現われてきます。例えば、学法、煉功、発正念をしている時に、頭の中でいろんなことを考えます、仕事の事、食事の事、これからする事を考えます。入静する状態に全く達していません。修めること、学法、煉功、発正念をすることに専念できず、形式をとっただけで、頭の中では早く終わらせる事しか考えていません。早く終われば、その日の任務を終えた気がします。一見修煉しているように見えますが、実際、空回りをしていただけで、偽りな修煉なのです。
よく「真」(中国語では「眞」とも書きます)と言う文字を見てみますと、この文字の上半部は「ヒ」と言う文字です(中国語の意味は短剣を指しています)。下の部首は「自」に似ていますので、私はこの「眞」と言う文字に「常に自分の雑念を取り除き、自分の心を浄化する」と言う意味合いが含まれているようにも理解しています。確実に「真」の状態に到達したければ、すなわち、自分を妨げるあらゆる外在的要素を絶え間なく取り除いて、自分を焦らせて、入静できない全ての外来的な妨害を取り除く事です。「体と心が一つになり」[1]の状態に達してこそはじめて「真」の状態になれて、宇宙の本性に同化できるのです。
ゆえに、今後、全てのことにおいて、常人の事においても、大法の事においても、どんなに大きな事であっても、小さな事であっても、常に堅実に、集中して、一心不乱に成し遂げなければならないと思います。いい加減に誤魔化してはなりません。他人に依頼された事に対して、何回も繰り返して見直し、疑う余地がなくなるまで検討して、ようやく依頼者に返せるのです。修煉のことは尚更そうなのです。修煉の過程において各種の人心に妨げられてはなりません。修煉には小さな事はありません。私達が常に法の基準に則っていることは、他人に対して責任を持つ無私な状態でいられる保証であり、また、自分の落ち着かない心、怠慢する心、安逸心を修める過程でもあります。この過程の錬磨の中で、返本帰真してこそ、はじめて「真」と言う先天の本性を修め得るのです。
少しばかりの悟りですので、正しくいないところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『大円満法』(二、動作図解)