師と法を信じることについて
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2020年12月1日】長い間、法を暗記することはいつも中途半端で諦めてしまい、いい加減に済ませていました。とても悩んでいましたが突破口は見つかりませんでした。法を暗記し始めると自分の私心や雑念などが出てきて、1日に1段落しか暗記できなくなってしまいました。そのため、がっかりしてやる気も無くなり、なかなか進まず最後には諦めることにしてしまいました。

 最近、私はずっとある問題について考えていました。なぜ私と大法を「隔てる」ものが常にあるのだろうか? この「隔てる」は、法の中で完全に溶け込むことはできないため、法を学ぶことだけに限らず、他のプロジェクトをやっていても長く続けることができませんでした。この「隔てる」とは具体的には何なのでしょうか?

 昨日、ふと理解したのですが、長い間、何をするにしても、いつも「自分1人でできる」と思い、魔難などに遭遇したときでも、ほとんど師父にお願いすることがありませんでした。修煉の道での難や関などは、自分1人で乗り越えるべきことであって、師父に迷惑をかけてはいけないと思っていました。

 常人の中での私は、何事も人の世話にはならないというタイプです。そのため、困難に遭遇したときには、自分の力で乗り切るべきだと信じているので、この観念を大法修煉の中に持ち込んでいたのです。例えば、私は学法グループに全く行かず、いつも一人で学法をしていました。同修が来てくれないと、私の方からは、ほとんど同修のところには行きませんでした。協調人が私を、ずっと引っ張り続けてくれていなかったら、このまま孤独な修煉状態になっていたかもしれません。

 私と大法の間には自我があります。この自我が大法の中に完全に溶け込み、完全に自分を師父に任せることを妨げていました。これは師と法を信じることの根本的な問題なのです。金の精錬と同じように、常に純度の欠如があり、常に不純物があります。その不純物は、自我または自己なのです。

 師と法への信仰は、いくつかの執着を放棄することにも現れています。数日前、常人の友人が私に数百元の借金をしました。しかし、私はお金に対する執着の心が放下できていなかったため、お金を直ぐに返して欲しかったのです。しかし、直ぐには返してくれませんでした。後に彼女はお金を返してはくれましたが、私と話をしなくなり、連絡を絶ってしまいました。この利益を重んじる心により、私は衆生から切り離されてしまったのです。

 心が放下できない時、なぜ師父のことを考えなかったのでしょうか? 全てを師父にお任せして、自分の損得を師父に決めて頂くのです。他に手放せないものがあるでしょうか?

 ここまで書いてきたら、私はある同修が書いた文章を思い出しました。ある同修は、悪者に全身を殴られて意識を失ったことがありました。しかし、同修は生と死を放棄し、すべてを師父にお任せしました。結局、師父は同修の意識を取り戻してくださいました。これが、師を信じる純粋さと、それに対応するさまざまな結果の違いなのです。

 数年間続いている鬱状態の根本原因は、100%師父に全てをお任せすることができず、師父を信じていなかったからだと分かりました。それからは、私は毎日主意識を強めていきました。全てを師父にお任せしようと決意しました。それからは、暗記の質と量が大きく変わっていきました。1日に3~4ページ以上の暗記をこなせるようになったのです。これらのことは、今までの私にはできないことでした。

 個人レベルでの少しの認識であり、同修と共有するために書き出したもので、適当でないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/21/415384.html)
 
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