低い所から高い所を望むーー師と法を信じることについての悟り
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文/中国の大法弟子       

 【明慧日本2021年1月14日】ある時、学法をしていて本の中に、「むかし修煉の人は縄で這い上がり、中に入ってから縄を切って、洞窟の中で修煉しました。修煉が成就できなければ、中で死ぬしかないのです。水もなければ、食べ物もありません。このようなきわめて特殊な環境の下で特殊な修煉方法が採用されたわけです」[1] の法について、私は突然、非常に強烈な共感を感じて、師を信じること、法を信じることについて、一層の法理を悟りました。

 人は常人の全てを放下して、洞窟に入り、辟穀という特殊な方法を使って修煉すれば、自分に完全に余地(逃げ場)を残さないことです。お寺で修煉する場合、修め続けられない時、還俗することができます。だから、洞窟での修煉であれば、その門の師を完全に信じなければ、そこまでやる勇気がないでしょう! この修煉者は最後成就できるかどうかは別として、この信じること自体は非常に素晴らしいと思います。

 古今東西、修煉を信じる人は多いのですが、真に修煉に入った人は少なく、最後に成就できる人はもっと少ないのです。もちろん原因はいろいろありますが、師を100%信じるかどうかは最も根本的な原因だと思います。人は迷いの中で真相が見えず、「目で見たものこそが確実だ」という観念に制限され、たとえ根基が良い人にしても疑いと動揺する可能性があるでしょう。天目が開いた人でも見えるものに限りがありますが、天目が開いていない人はもっと難しいのです。これは修煉の難しさで、逆に言えば修煉の最も貴重なところです。

 私たちは毎日師を信じ、法を信じることを言いますが、しかし師を信じ、法を信じることについての理由は何でしょうか? 恐らくこれは当たり前のことで、師と法を信じなければ、どうやって修煉していくのでしょうか。

 しかし、細かく考えれば、そこまでに止まらないと思います。例を挙げましょう。私たちはあるところへ行く時、道がよくわからない、何か障碍があるのか、どうやって対応するのかについてあまりわからない場合、つまり私たちは低いところにいるので、全線が見えないからです。しかし、師父は高い所にいらっしゃって、全線がはっきり見えるので、師父は私たちにどうやってゴールにたどり着くかを教えてくださるということと等しいのです。

 しかし、私たちには見えないので、多くの場合、師父が教えてくださったことと自分の経験や実際の状況が異なる場合があります。この時、私たちは師を信じるかどうかのテストになり、真に師を信じ、法を信じて歩み、振り返って見た時、すべて師父が把握していると分かります。そのため信じなければ、修煉しているとは言えなくなります。

 今はすでに修煉の最後の段階になり、「信」はもっとも重要になります。正法時期の大法弟子としての使命があり、すでに逃げる余地はなく、必死に戦い進む道しか残されていません。昔、辟穀を使って修煉する法門は小さい法門でしたが、彼らは自分の余地をすべて切り捨てることができ、中国では常人にも死んだ後に再生する」という諺があります。即ち、生き残るために自分を死ぬ場所にあえて置き、再び一生懸命に生きようとするという意味です。私たちも同じ気持ちで修煉しなければならないでしょう。

 注:
   [1] 李洪志師父の著作『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/31/417591.html)
 
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