雲南省の年配大法弟子の修煉物語(五)
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文/雲南省の大法弟子

 【明慧日本2021年3月5日】(前文に続く)

 十、80代の素さん「私は浮き上がった」

 80代の素雲さん(仮名)は、1998年に法輪大法を修煉し始めて以来、体に多くの奇跡が現れ、大法の超常と素晴らしさを実感しました。以下は、素さんが語った修煉の体験です。

 私は1998年2月初旬、病気を治療するつもりで法輪功の修煉を始めました。修煉する前に頚椎椎間板ヘルニア、左目黄斑変性症、両目白内障、目の血管と脳の血管、および心臓の血管動脈硬化症、高血圧、高脂血症、五十肩、慢性大腸炎、糸球体腎炎、その他十数種類の疾患に悩まされていました。

 治療のため、注射をしすぎて左右の腕の筋繊維が切れてしまい、注射をした部位には大きな硬いしこりができました。「もう注射はできない」と医者に言われました。 あまりにも多くの抗炎症薬を飲んだために、貧血になり、食べ物が喉を通らなくなり、食べるとすぐ吐き出してしまうので、どうしようもありませんでした。

 その後、法輪功には健康を維持する奇跡的な効果があると聞いて、早速法輪功の煉功を見つけ、学び始めました。3日目、私は下痢で1日に20回以上もトイレに駆け込み、出てきたのは黒いものばかりでした。ちょっと怖くなったので、古い学習者に聞きました。「大丈夫ですよ。これは、師父が身体を浄化してくださっているので、心配しないで下さい」と言われました。3日後、その症状は治りました。

 法輪功を勉強してから3カ月後のある日の正午、台所で野菜を炒めていたところ、突然衝撃的な痛みに襲われ、思わず飛び上がってヘラを床に落としてしまいました。その痛みは数秒で過ぎ去り、その時にはあまり深く考えませんでした。夜寝るとき、痛みの場所を見てみると、そこは以前胆石の手術をした場所で、長さ4センチ、厚さ1センチ、幅1センチほどの傷跡が残っていて、よく痛くなったりかゆくなったりして、漢方薬や、電気治療などを試してみましたが、どれも効果がありませんでした。しかし、今ではあらゆる症状が消えただけでなく、傷跡も消えて元の肌になりました。その時、思わず感激して泣いてしまい、師父に対する感謝の気持ちは言葉では言い表せないものでした。

 1999年7.20後のある日、同じ敷地内に住んでいた同僚が、もう法輪功を修煉しないようにと親切にアドバイスしてくれました。私(当時68歳)は「法輪功はとても素晴らしく、性命双修の佛家修煉大法です。法輪功を修煉してから、私は心身ともに大きく変化しました。法輪功は国に対しても国民に対しても百利あって一害なしです」と説明し、中共の嘘のプロパガンダに騙されないようにと彼女に言いました。彼女も法輪功は良いと知っていますが、ただ毎回の政治運動を経験したため、中共に怯えているだけでした。私と彼女は1時間以上法輪功について話しました。

 電話代の支払いがあるので、急いで歩いているととても軽快になりました。歩いているうちに、足が地面に当たらず、浮いているような感じがして、少し怖いと思いましたが、何が起きたか分かりませんでした。人混みの中いくら混雑していても、私は非常に簡単に通過し、浮いた状態で三つ目のバス停の交差点に着きました。ちょうど信号が青になったので、多くの人が横断しており、そこで「これ以上浮いていると他の人に見られるので、まずい」と思ったら、本当に通常に戻りました。

 その時には不思議に感じましたが、同僚に真相を伝えたため、師父が私を励まして下さっているのだと後になって分かりました。

 十一、「私は死んでいないどころか、ますます元気になった」

 私は1929年5月5日の生まれです。若い頃、私は神を信じないで、毛沢東の無神論と闘争哲学だけを信じていました。1986年に占ってもらったのですが、私の天寿は71歳だと言われました。私はそれを信じないで、また別の人に占ってもらうと、やはり71歳までしか生きられないと言われました。

 1997年11月15日、私はやってみようという気持ちで法輪大法を学びました。修煉において精進していないため、2001年以降、冷え性、リウマチ、脳梗塞、慢性胃炎などの持病が、次々と再発しました。

 私は自分を修煉者とみなしておらず、あちこちの医者を訪ね回りました。 漢方、西洋医学、民間医、悪魔信仰まで求めましたが、効果がありませんでした。その後、急性虫垂炎になって手術をしたのですが、歩くこともできなくなり、結局、植物人間になってしまいました。妻にしか分からない「寝返りを手伝ってくれ」という一言だけを、曖昧な発音でしゃべることしかできませんでした。

 半月連続で飲食ができず、全身が変形し、僅かな息しか残っていない状態になりました。妻と家政婦はお風呂に入れてくれ、床屋さんに頭を剃ってもらいました(男性が死んだら棺桶に入れる前に頭を剃らないといけないという風習がある)。 友人や家族が皆揃い、私は遺言も残しました。

 その時、ある同修が家にきて、私の様子を見たのですが、何事もないように「元気を出して、まだ仕事がいっぱいあるのに、去っていくつもりですか? あなた自分が強くならないと、師父が助けようとされても無理ですよ!」と言ってくれました。これを聞いて、私は涙がこぼれました。すると、同修は足を組んで私の傍に座って、大法の本を読み聞かせてくれました。その後、他の同修も順番に来て、正念を持つように私を励まし、法を読み聞かせてくれました。

 このように1カ月が過ぎて、私は正常に回復しました。師父が私に第二の人生を与えて下さいました。

 今では充実した毎日を過ごしています。この間、原付きの運転を覚えたばかりで、それに乗って通勤しています(自営業)。

 私は自分の仕事と師が法を正すことを手伝うことや、衆生を救うことを両立させて、大法弟子が行うべき三つのことをしっかりとやっています。私のことを知っている人は、みんな不思議に感じています。警官らが嫌がらせに来た時、私は「私のすべては大法が授けて下さったものであり、私の命も大法から与えられたものであり、学ばなければ私の命が無くなります。大法を修めなければ自分は存在しません。私は学ばないわけがないでしょう」と言いました。

 十二、ラフ族の年配者の修煉の物語

 80代の劉さんはラフ族(人口の極めて少ない民族)で、字が読めません。修煉する前には大きなお碗で酒を飲み、よく酔っぱらったりして、タバコを次から次へと吸っていて、朝から晩までいつも口にタバコをくわえていました。

 1998年のある日、妻が大法の師父の説法ビデオを見に隣の村に行くと聞いた劉さんは、ビデオを見た後は暗くなり、荒涼地を渡らなければならないと考え、心配して妻と一緒に行きました。ビデオを上映する場所に到着すると、劉さんは隅っこを見つけて、そこでしっかり寝ようと思いました。

 その日は、大法の師父の済南講習会の映像が放映されました。隅っこで聴いていた劉さんは、師父の説法がとても理にかなって、すべて心に響くような気がしました。師父の説法を聴いた後、劉さんは「私も修煉したい!」と力強く言いました。このようにして、劉さんは修煉を始めました。

 劉さんは字が読めないので、妻が『轉法輪』を読むのを聞いていましたが、妻が忙しい時は、読んでくれないので、劉さんは焦っていました。その後、数年間の粘り強い独学の末に、『轉法輪』を一人で読めるようになりました。

 1999年7.20の後、劉さんは妻や他の同修と一緒に北京へ行きましたが、天安門広場で連行され、雲南に連れ戻されました。帰宅した後にもかかわらず、警官や610弁公室の関係者による嫌がらせが絶えなかったため、劉さんは消沈していました。妻と他の同修は外に出て、人々に迫害の実態を伝えていますが、劉さんはなかなか外に出てきませんでした。

 ある日、法を学んでいる時に、「表面の人間のところから言えば、法を得た人は法の内涵を知り、法によって生命が延長され、身体が健康になり、家庭が睦まじくなり、親族や友人も間接的にメリットを受け、業力が滅せられ、さらに師父がそれによって受け持ったもの等々、このすべてにメリットを受けています。他の空間から言えば、身体は神の身体に転化しつつあるのですが、大法があなたを圓満成就させようとするとき、かえって人間の中から脱皮することができずに、邪悪が大法を迫害しているとき、あなたは逆に、表に出て大法を実証することができずにいます。ただ大法の中からメリットを得ようと思うばかりで、大法のために貢献しようと思わないこれらの人は、神の目から見ると、最も良くない生命なのです」 [3] という部分の説法が劉さんの心に響きました。

 その時、劉さんの頭は 「轟々」と震撼を受け、「これは私のことではないか? 法輪功を修めた後、病気と痛みはすべて一掃された。自分は大法から恩恵を受けるばかりで、少しも貢献しようとしないので、最も良くない生命ではないか? それではいけない。私は最も偉大な生命になりたい。自分の誓約を果たそう」と思いました。

 数年来、劉さんは疲れを恐れず、迫害の実態を伝え、資料を配布し、多くの街や農村を歩いてきました。多くの人は劉さんと知り合いになり、いつも「法輪功のおじいさん」と呼んでいます。

 ある日、劉さんは資料を配っていた時に通報されました。警官は車で追いかけていましたが、劉さんは古い自転車に乗って前を走っており、少しの雑念も考えませんでした。すると、後ろの車に乗っていた警官が「男はどうやって消えたのだろう? もういい、戻ろう」と言っているのが聞こえてきました。

 ある日、劉さんは不審者に通報されましたが、何も考えずに自転車に乗って走っていました。突然チェーンが切れてしまったので、劉さんは道端にしゃがんで自転車を直していたところ、警官の車が後ろに止まりました。降りてきた2人の警官は前を見ながら「男はどこに行ったんだ?」と呟いていました。劉さんは師父が守って下さっているのだと分かりました。

 注:
 [3] 李洪志師父の経文:『精進要旨二』「提案」

 (完)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/1/420891.html)
 
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