非常にひどい花粉症が治った奇跡
■ 印刷版
 

文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年3月31日】薬も注射もしないで、1冊の本を読むだけで、ひどい花粉症に別れを告げることができるのですか。答えは、「できる」のです。

 日本には「花粉症」という病気があるのは、皆さんはご存じかもしれません。春になるとスギ花粉が大量に飛び、目や鼻、のどを刺激して不快感を引き起こします。他の植物、例えばヒノキ、シラカンバ、ブタクサ、ヨモギなども同様に花粉を飛ばし、体の不調を引き起こしますが、日本で最も多く植えられているのはスギですね。杉の幹はまっすぐ伸びて数十メートルの高さまで成長し、枝が少なく、良い建築材料です。第二次世界大戦後、日本政府はスギの植林に力を入れましたが、スギ花粉による人体への被害を考慮していませんでした。以前、テレビ番組で見たことですが、日本国民の政府に対する「10の不満」のうち、「考慮不十分でスギを大量に植えて、花粉症を引き起こした」ことが第3位に据えるそうです。今は花粉が大量に飛散する季節ですので、私が罹った非常にひどい花粉症があっという間に治った体験を書き出して、花粉症に悩まされている方の参考にしたいと思います。

 花粉症の苦しみ

 私自身が経験してきた花粉症のつらさと、ある日突然花粉症が消えたことについてお話しします。

 私は1998年に日本に留学で来ました。身近にいた中国人の学友たちは、日本に来てすぐ花粉症になり、ほとんどの人がくしゃみと鼻水が止まらなくて、また声が枯れて、目はウサギのように赤くてかゆくて仕方ない人もいました。自分は無事で良かったと思いました。

 2002年2月初め、論文を書きながら就職活動をしていたところ、全身がだるく、片方の上下の歯茎とも痛くて、目が乾いて、片方の目から時々涙がでました。小さい時から体が弱くて、一年中、体が快調である日があまりないので、自分の体の変化にもあまり気になりませんでした。そのような状況が1カ月ほど続いていました。花粉症は3、4月に発症するイメージがあり、3、4月は街の三分の一の人がマスクをしています。ですから2月の時点では、体の不調を花粉症とは思いませんでした。

 翌年の2003年2月初旬のある週末に、突然、今まで経験した偏頭痛とは違った、人生で経験したことのない激しい頭痛に襲われました。ここで少し説明をして置きますが、我が家には遺伝性の偏頭痛があって、母と兄、妹、私の4人とも偏頭痛を持っていて、父は大丈夫です。小学生の頃からよく頭痛がして、吐き気や嘔吐を起こしていた記憶があります。日本に来てからは、日本の頭痛薬は効かず、中国から持ってきた安い鎮痛剤だけが効きます。しかし今回、その鎮痛剤を倍に、3倍に服用しても効果がありません。しかも今回の頭痛は頭全体が痛くて、「頭が割れるほど痛い」という言葉が身を以て分かりました。同時に強い吐き気を伴っていました。その吐き気も、これまでの偏頭痛の吐き気とは違い、吐き気がする時に食道やのども震えているようです。丸二日間、私は食事も水も採っておらず、ベッドに入って寝ることで頭痛から逃れようとしました。たまに目が覚めると、すぐに吐き気が襲ってきて、重い体を引きずってトイレに行って吐いたりします。帰ってからベッドに上がる気力もなく、床に横たわって、しばらくしてからやっとベッドに上がることができます。吐くと言っても何も吐き出せない時がありますが、人差し指を喉の奥に入れて、そうすると反射的に吐くようになって、それでかろうじて吐き気を少し和らげることができます。何と言っても、反射的に吐くことでも吐き気の状態より少し楽だからです。

 この2日間、何度も救急車を呼ぼうとしたのですが、頭が完全に物事を考える能力を失ったため、なんと電話帳で救急車の番号を調べる必要があると思ったのです。電話帳は2メートルも離れていないところにありますが、取る力がありません。また、電話帳で救急車の番号を探すことにどうしても頭を使う必要があると思い、当時の私には大きな負担となり、仕方なく救急車を呼ぶことを諦めました。実は日本での救急電話は119番なので、ふだんの私ならとっくに知っているはずです。しかしその時は、救急電話の番号を電話帳で調べないといけないと思ったほどおかしい状態になって、つまり、頭で物事を考えることができない状態でした。

 この2日間で何度も嘔吐しましたが、そのうちの1回は噴射状の嘔吐でした。これも以前の偏頭痛では、どんなに痛くても起きたことはありませんでした。それは、一度目が覚めた時に強い吐き気に襲われて、胃の中のものがすぐにでも飛び出そうになって、頭の痛みを顧みず、体の重さにも顧みず、スリッパを履く時間もなく口を押さえながらトイレに走りました。しかしやはり一歩遅れて、どういうことか分からず、一瞬にしてトイレの壁、床、便器の内外に噴出しました。当時住んでいた家はキッチンとトイレが共用だったので、どんなに苦しくても、紙や雑巾を探してトイレをきれいに掃除するように心がけていました。そんなに辛い状況下でも元気を絞り出して掃除をしなければならないことは、死ぬほど辛かったです。

 ベッドに倒れて、心の中は限りなく悲しんでいました。その頃、修士号を取ってから日本の会社で1年間働いたばかりです。まだ実現していない夢もたくさんあり、日本で頑張っていきたいと思っていたところです。しかし今、このような死ぬほどつらい変な病気に罹って、原因も分からないし、いつ発病するか、いつまで続くか、どんな薬を飲めば治るかも分からなくて、とにかく内心はパニックになりました。この病気は日本で発病したもので、まさか神様が私に日本での生活を諦めて国へ帰るように諭しているのだろうか。悲しいですがどうしようもできない、この無力な気持ちはとてもつらいものです。

 一流病院の准教授も、花粉症と診断できなかった

 3日目、つまり月曜日になると、頭痛が少し和らぎました。会社に電話で休みを取って、近所の病院に行くことにしました。もちろん早く行きたかったのですが、吐き気が激しいため、顔を洗ったり歯を磨いたり服を着替えたり、一つ一つの動作が遅いので、もたもたして11時を過ぎてやっと家を出ました。自転車で10分ちょっとのところにある有名な大学の附属病院に着いたのは、ちょうど12時を過ぎたところでした。受付に行ってスタッフに症状を訴えたら、毎日午前だけ受付をしていて、今日は時間が過ぎたので、明日また来てくださいと言われました。スタッフの話を聞いてその場で涙がでました。この人は何て無愛想なんだろう、私はこんなにつらいのに、力を振り絞ってやっと病院まで来たのに、明日また来てくださいだなんて、どれほど冷たい男だろう。生きていることはどうしてこんなに難しいんだろう、と思いました。日本の病院の診察の流れがよく分かりませんが、このまま家に帰るのが悔しく、その時、近くにいた人が私に同情してくれたのかもしれませんが、こっそり「急診の窓口に行ったらいいですよ」と教えてくれました。それで急診に行って、症状を伝えたら脳神経外科に案内されました。

 診断をしてくれたのは50歳ぐらいの優しい男性医師で、名札を見たら准教授のようでした。私から症状を聞き、「とてもよく効く頭痛薬を処方します。頭が痛い時に飲んで、飲み切ったらまた来てください。あなたの頭痛の原因は分かりませんが、神経痛かもしれません。噴射状の嘔吐があるにしても、心配する必要はありません。頭の中に腫瘍などはきっとできていませんし、レントゲンを撮る必要もありません。もし腫瘍ができていたら、今まで生きていることはできないので心配ありません」と話しました。とてもよく効く薬を処方してくれると聞いて私はホッとして、少し気が楽になり先生と頭痛の話題をし始めました。話の中で分かったことですが、なんと先生も幼い頃から頭痛がしていたそうです。寒くなると痛い、暑くなると痛い、疲れていると痛い、泣きすぎると頭が痛くなるなど、先生と頭痛の経験について分かち合って、本当に苦笑いするしかない体験でした。もしかして先生は、頭痛の持ち主であるがために脳神経外科の医師になったのではないかと私は思いました。

 処方箋をもらって近所の薬局に行きました。その薬は薬局で現に調合するものかどうか分かりませんが、30分以上待ってやっともらいました。私は宝物を手にしたかのように、すぐに一錠を服用しました。およそ30分が経つと頭が痛くなくなりました。その医師は薬を4錠しか処方していなかったので、薬の成分が分かりませんでした。日本の医療保険制度では自己負担が30%なのに、4錠で1600円もかかりました。当時のレートでは人民元110元相当で、2003年当時としてはかなりの高額です。日本のドラッグストアで売っている処方箋不要の頭痛薬は、20錠でも1000円で買えます。

 自分自身で「花粉症かな」と結論に辿り着いた

 家に帰ったら、頭が痛くなくなったので、早速パソコンで「頭痛」をキーワードで検索して、何か情報を見つけたいと思って、花粉症で頭痛を起こす可能性もあると書かれたウェブページを見かけました。その時の季節を思って、昨年2月初旬の体調不良のことを思い出すと、激しい頭痛の原因は花粉症ではないかと私は大胆な推測をしました。

 その時は2月の初めで、街にマスクをする人はあまり見かけませんが、自分は一般的なスギ花粉にアレルギー症状が出るのではなく、他の何かの花粉に反応しているかもしれないと思いました。それで顔のラインにぴったり密接するような花粉対策マスクを買って、その日から毎日外出時にマスクをしていました。思った通り、その日から頭痛が起きませんでした。4月に入ってから、恐る恐るマスクを外して2日間試してみたら大丈夫だったので、今年の花粉の季節がやっと過ぎたということが分かりました。残った3錠の薬は、宝物のように引き出しにしまっておいて、やむを得ないところまで来ない限り飲まないようにしようと思いました。

 2004年、2月に入ってすぐマスクを買って毎日つけていました。その頃の仕事は毎日頻繁に仕入先などに電話をしていたのです。電話をかける時はマスクを外して、かけ終わったらつけ直すのを忘れたりして、そうすると午後になると頭が痛くなります。もしその日にしっかりマスクをつけていれば、夜まで何もないのですが、マスクをまともにつけていなければ午後からだんだん頭が痛くなり、夜になると吐いてしまうこともあります。マスクをつけるタイミングと頭痛は、はっきりとした反比例関係になって、2003年と2004年の激しい頭痛と吐き気は花粉症のせいだということの証明にもなりました。ある日、昼は油断していたのか、マスクをきちんとつけていなかったので、夜はどうしようもなく頭が痛くて、また噴射状の嘔吐が発生しました。今度はトイレに向かって走っている途中で転んでしまい、一瞬にトイレの壁だけでなく鏡、地面、便座の中も外も、着ていた服の袖まで汚れてしまいました。

 あっという間に2005年に入って、私の生活、仕事、恋愛、どれも難関にぶつかり、毎日憂鬱で落ち込んでいました。その時、『轉法輪』という本を思い出して、その本をもう一回読んで、本から憂鬱な心境を抜け出す力をもらいたいと思いました。1998年6月、一回、その本を真面目に読んだことがありました。当時、本に述べられていた「失わないものは得られず」の道理を見て、気持ちが晴れて、放下できないものを多く放下できるようになり、当時の精神的な苦境から抜け出したことを、鮮明に覚えています。今は毎日へこんで、鬱病にもなりそうな感じで、生きる意味が見つからず、毎日ダラダラと過ごしています。友達に相談したり、自分で気合いを入れたりするのではもう役に立ちそうにもない窮地まできました。暗闇の中、7年前に『轉法輪』を読んだ後に胸が開けた爽快な感じを思い出して、もう一度その本を読んで、自分を救いたいと思いました。

 『轉法輪』を知るいきさつ

 『轉法輪』という本を初めて知ったのは1998年6月、当時26歳の私が日本留学の手続きのために実家に帰って、数日間滞在した時でした。58歳の母は健康で元気いっぱいとなって、まるで別人だったことに気づきました。法輪功という気功をやっていると母が言いました。母は若い時にたくさんの苦労をして、健康に大きなダメージを受けました。偏頭痛、胃痛、関節痛、40代で心臓病を患って、年中よく薬を飲んでいました。57歳の1年間で脳卒中、心臓病、ひどい風邪などのため、年に4回入院しました。私の実家辺りに法輪功が伝わったのは1998年前後で、ちょうど母が4回入院した翌年でした。もし法輪功を修煉していなければ、それからの歳月に母の体はきっと悪くなる一方で、入院はもっと頻繁になり、決して好転するはずがないと思います。

 家に滞在した数日に、母が毎朝とても早く出かけグループ煉功に参加し、夜には小さな鞄を持って勉強に出かけていました(後でそれはグループ学法に参加していると知った)。母が毎日も元気いっぱいで、足は軽くて速くなって、その元気さはもの心が付いてから見たこともないほどでした。母は、私たちがやっているこの気功には本もあるのよと言って、『轉法輪』を渡してくれました。私の少年時代にちょうど中国では気功ブームが起きて、気功にまつわる不可解な現象を自分の目で見たことがあるので、ちょっとした好奇心を持って『轉法輪』をめくりました。

 初めて『轉法輪』を読んだ時の感銘

 1998年6月、好奇心と、母がどんな気功をやっているのかを把握したい気持ちを持って、『轉法輪』を開きました。本に書かれているのは、確かに今まで見たことのない、不思議な感じのもので、ついつい読みたくなり1日半かけて一気に読み終えました。私の少年時代に経験した気功、功能に関することはすべて『轉法輪』の中で説明を受けたので、「なるほど、こんなことなんだ」と納得しました。もともと本読みが好きで、興味も多いのですが、それまで読んだ本の中で仏教、気功、功能、天目、憑き物などをはっきり説明できる本は一つもなく、私はこの本の作者に多少感心しました。

 また、良い人間になるための道理を、本にはっきりと書かれています。「失と得」の道理、業力の転化などの内容を読んだら、「善悪にも報いがある」という曖昧な概念は、疑う余地のない認識に変わりました―人間は悪いことをしてはいけない、悪いことをすると、いずれ自分の身に報いが返ってくる、たとえ損をしても善良な人になること。自分は幼い頃から心の優しい人だと思いますが、その善良さは天性から来ているだけのものです。『轉法輪』を読んでから、「人間は良心を守るべき」ということに対して、より厳粛な認識を持つようになりました。人間はただ「善は小なるをもってこれを為さざるなかれ」をやり遂げるだけでは不十分で、それよりも「悪は小なるをもってこれを為すなかれ」を守らなければならならない。悪いことであればたとえどんなに小さくても、やるべきではない。身を潔くしなければならない。これからの人生の道は歩んでいくうちに潔白と名誉を大切にしなければならない、一時の損得のために体や心を汚してはならない、と本を読みながら思いました。

 当時、すでに大学を卒業して何年も働き、純粋な学生時代に成り立った人生観は絶えず現実社会とぶつかり合って、ちょうど人生観を立て直す時期に当たりました。善良を守りたい信念は現実の名、利、情と衝突し続け、このままでは内心の善良さが崩れていき、自分は冷たくて狡猾な利己主義者になりかねません。本を読んですぐに修煉に踏み込もうと思ったわけではありませんが、『轉法輪』を一回読んだだけで、道徳の下落の道に滑っていく自分に警鐘を鳴らしたようなものでした。それから、私が本格的に法輪功の修煉を開始するまで7年も挟んでいましたが、7年の間、よく『轉法輪』に述べられている道理を思い出して、これらの道理から堅実な力をもらって、良心を守るように努力し続けてきました。

 『轉法輪』を読んでから、良い人間になろうとする選択はやはり正しいことだと感嘆して、初めて「良い人間になることは正しいこと」の理論的根拠が見つかった気がしました。前にも述べたように、自分の善良さは天性に由来するだけで、大人になるにつれて少しずつ悪くなっていく傾向も出てきました。子供の頃から読んでいる本の多くにも、善良な人間になろうと教えていますが、しかしその中から「どうして善良な人にならなければいけないのか」の理論的根拠が見当たりません。なぜだろうか、私を納得させる言い方が見当たりませんでした。しかし、すべては『轉法輪』の中で答えが見つかりました。『轉法輪』には「善悪には報いがある」とのように書かれていませんが、輪廻、天理、「善悪にも報いがある」などは肉眼で見えないが実在していることは、読んでいるうちに私自身で悟りました。だから、人間は本当に悪いことをしてはいけないとつくづく思いました。これほど強力な警告効果のある本はこれまで出会ったことがありません。

 本を閉じて、心の中ではかつてないほど透き通って、混乱していた人生観は、その瞬間に明晰で簡単になりました。どんなことがあっても、良い人間になるのは永遠に正しいことです。これは宇宙の理です。それが分かった以上、これからそれを守っていけばいいんです、こんなにも簡単です!

 もう一つ、当時の私、仕事が順調に運ばなくて、前途も見えなくて、おまけに苦痛の失恋を経験したばかりです。『轉法輪』の言葉、「常人には認識できない理を一つ、皆さんにお話ししましょう。あなたが自分では何でもよくできると思っていても、運命の中にそれがありません。ところがある人は何をやっても駄目に見えていても、運命の中にそれがあるから、幹部になったのです。常人がどう考えても、それはしょせん常人の考えに過ぎません。もっと高い次元の生命体から見れば、人類社会の発展は、定められた発展の規律に従って進展しているだけなのであり、人が一生の間に何をするかが、その人の能力に応じて段取りされているわけではありません。佛教では因果応報を唱えていますが、段取りは業力に応じてなされていますから、あなたにいくら力量があっても、徳が無ければ、一生何も得られないかも知れません。ある人は何をやっても駄目でも、徳が多いので、高官になり、金持ちになります。常人にはこの理が分かりませんので、自分にふさわしいことをやらせて貰うべきだといつも思っています。ですからその人の人生は争いの繰り返しであり、心がずたずたに傷つけられ、とても辛い思いをし、疲れていると感じ、心はいつも平静でいられません。すると食事も睡眠もろくに取れず、気落ちしてやる気を失い、年を取ってくると身体もがたがたになり、あらゆる病気に見舞われるのです」[1]を読んで、ぱっと悟りが開いたように、その忘れられない恋を一瞬にして放下しました。また、仕事や生活の中の様々な挫折は人間自身の業力によるもので、苦労をするのは業力を返しているとの道理が分かりました。これから損得に気を置かないで、考え方を変えて生活の中の苦しみに直面しようと自分に言い聞かせました。わずか1日半の間に、私の考え方と心境はまるで別人のように変わり、「放下」という道理が分かりました。

 1998年10月、私が留学で日本に出発する前に母は『轉法輪』、『轉法輪(巻二)』、『法輪大法義解』のセット(3冊は文庫本で、一つのカバーに入っていた)と『大圓満法』を私に渡して、日本に行ってから法輪功を学ぶように言い聞かせました。

 母の修煉を応援する

 日本で私の住んでいる寮に無料配布している『人民日報』の海外版があります。正確には覚えていませんが、きっと1999年7月20日以降のある日、『人民日報』海外版を開くと、法輪功への中傷はなんと新聞一面になっています。私はそれを鼻で笑いました。1989年の「六四天安門事件」の時も、テレビと新聞は一辺倒に学生運動を批判したのではありませんか。中国共産党の極左宣伝がとても嫌いで、共産党が極力打ち倒そうとするものほど、かえって良いものであることを知っています。幸い1998年に『轉法輪』を全部読んだおかげで、私は是と非の分別がつきます。国の力を挙げて一つ善良な気功をこんなに大規模に批判するなんて、本当に恥知らずな政党だと思いました。

 それから、国内で母がそういう弾圧に耐えられないことを心配しました。当時、中国共産党がすでに法輪功学習者に対して残酷な迫害を開始したとは夢にも思いませんでした。日本に来てまだ1年も経っていないので、1000円で2時間以上国際電話を掛けられるという安い電話カードの存在も知らず、家に連絡するのは手紙を書くことだけで、一度も電話したことがありません。でもその日、母が修煉を諦めるのでないかと心配したので、母に電話をしようと考えました。当時、携帯料金はまだ高かったが、日本の街には公衆電話ボックスがたくさんありました。公衆電話は2種類あって、緑色の電話機は日本国内にしかかけられず、灰色の電話機は国際電話が直接かけられます。コイン投入式なので、1000円で7分ぐらいかけられます。私は1000円を100円玉10枚にして、母親に7分間の電話をかけようと決心しました。目的はただ一つ、共産党が何を言っているかを気にせずに、修煉を続けてほしいことを母に伝えたいのです。私は母に「この功法がお母さんを健康にしたことは、私は自分の目で見ていました。お母さんがこんなに健やかになったのを見たことがなくて、この功法はただもんではありません。そして、私は一度『轉法輪』を読んだことがあるので、本には善良な人間になる道理を教えるものばかりで、悪いことは何一つ書かれていません。共産党の言うことを聞かないで、自分にとって健康こそ最も重要なことです。共産党が法輪功を禁止するなら、お母さんは家で一人でこっそりやればいいです。他人がどう言おうと、正しいことはいつも正しいのです。お母さん自身がしっかりしてください」と少しくどいほど言い聞かせました。当時の自分は、ためらうことなくあんなに高い料金で母親にあのような内容を喋ったことは、私の持った正念の現しとも言えるだろう、と数年後には思いました。

 『轉法輪』を読み返すと、急に花粉症が治った

 2005年の1月末、諸事の不調で気分がどん底に落ちました。どうしようもない中、7年前に『轉法輪』を読んでから気持ちが朗らかになった経験を思い出して、窮地を抜け出すため、人生2回目、また『轉法輪』を開きました。読んでから、気持ちがずいぶん明るくなった。しかしその時に修煉しようとは思っていなくて、法輪功団体が受けた残酷な迫害についても何も知りませんでした。

 ある日ふと気づいたのですが、あれ、もう2月に入っているのでは? 例年では、とっくにマスクをしていたはずなのに、どうして今まで頭痛が起きていないのか?

 『轉法輪』の中の言葉を思い出しました。「わたしはここで病気治療の話をしませんし、病気治療などもしません。しかし、本当に修煉をしようとする人の身体に、病気があっては修煉できるわけがありません。ですからわたしは身体を浄化してあげなければなりません。しかし身体の浄化をしてあげるのは本当に功を学びに来た人、本当に法を学びに来た人だけに限ります。もしあなたが病気のことばかり考えるその心を捨てられないのなら、われわれは何もしてあげられないし、どうすることもできないということを強調しておきます」[1]

 「皆さんもお聞きになったことがあるだろうと思いますが、佛教には、『佛性がひとたび現われると、十方世界を震わす』という言葉があります。覚者がそのような人を見ればひとしく救いの手を差し伸べ、無条件に助けてあげようとします。佛家では、人を済度するにあたって、条件を言わず、代償を求めず、無条件に助けるということなので、われわれも学習者の皆さんに多くのことをしてあげることができるのです。しかし、一人のただ常人のままでよいと思っている人が病気を治してもらおうと思っても無理です。病気が治ったら修煉しようと思う人がいるようですが、修煉にはいかなる条件も付けてはいけません。修煉しようと思い立ったら、修煉を始めるべきです」[1]

 『轉法輪』を読んだ時にただ中に述べられた道理に感服して、病気を治そうなどとは思っておらず、これはつまり佛性が現れたということでしょう、李洪志師父は既に面倒を見て下さり、私の体を浄化して下さったのではないかと大胆に推測しました。

 師父が面倒を見て下さった以上、私も師父に失望させることはできません。師父は私の体から花粉症を根こそぎに取り除いてくださったに違いなく、今年からマスクをしなくてもきっと大丈夫のはずです。そう思って、マスクをしないで出勤すると決心しました。当時の私にとって、その決断はまさに生死の試練と言っても過言ではありません。しかし、「ここ数日、頭痛がしていなかったのは、師父が私の体を浄化して下さったからだと思います。このことを通じて、佛性がいったん現れると奇跡も起きるという道理を師父が私に教示して下さいました。もしこれさえ信じようとしないなら、今後、私に信じられることはまだ何がありますか、人生は空っぽになるのではありませんか」と考えました。そこで、思い切って師父と大法を信じようと心を決めました。毎朝出かける前に「今日は家を出てからコンビニでマスクを買いませんか」と頭の中で自分と戦って、毎朝少し躊躇しますが、そのたびに自分を説得してマスクを買わないようにしています。

 こうして2005年の春、私はマスクをつけずに過ごしてきました。久しぶりに春の清い空気を吸って、あの怖くて嫌な花粉症と別れを告げました。私は正式に修煉を始めたわけでもなく、修煉の決心をしたわけでもなく、ないし煉功動作さえ覚えていない時に、真面目に『轉法輪』を一回読んだだけで、本に書かれた道理に心から賛成しただけで、考え方が単純で病気を治そうとも思っておらず、佛性が現れただけで、李洪志師父はあの恐ろしい花粉症を根から除いてくださいました。

 本格的に修煉を始めて大法弟子の一員になろうと決心したのも2005年2月からです。それから数年、花粉症とは完全に無縁でした。しかし面白いのは2010年2月、花粉症の兆候がまた現れました。その時、私は働いていた大都市から遠方の小さな町に異動して、同修たちと滅多に会えず、グループ学法とグループ煉功に参加することも難しくなり、自分一人なので修煉を緩めてしまいました。その年の春先、花粉症特有の頭痛と吐き気が再び悪化しました。すぐにこれは修煉を緩めたせいだと分かり、マスクをするのではなく、しっかり学法と煉功をすることにして、間もなく頭痛や吐き気がなくなりました。あれから11年経った今も花粉症は現れていません。

 結び

 治療もしてしなくて花粉症が消えた体験を、文章にして投稿しようと何回も思ったのですが、こんな小さなことでは書く意味がないと思って、何年も引きずってしまいました。今花粉が飛散する季節がまたやってきて、修煉してから健康を取り戻した例を「明慧ネット」で多く拝見したのですが、花粉症については見たことがないようです。私がいる日本では花粉症を患う人がとても多くて、自身の体験を日本の人々に見てもらえれば、花粉症で苦しでいる人たちにとって、花粉症を直す方法が一つ増えることになるのではないかと思い、さっそく書いてみました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/21/422357.html)
 
関連文章