文/海外の大法弟子
【明慧日本2021年5月8日】最近の修煉体験2点をもって、同修の皆さんと交流したいと思います。
一、修煉者は自分自身を大切にするべきである
長年来、私はずっとメディアの仕事に携わっており、昼間は家事で忙しく、また夜は頭を使うニュースの編集などに専念する日々で、そのうちだんだんと疲れが溜まってきて、ついつい寝だめして睡眠不足を解消しようと考えるようになりました。その結果、毎日五式の功法を欠かさずに煉っていた私でしたが、次第に動功だけを煉り、静功だけを煉り、遂に全く煉功しない日もあるようになりました。
数年前、ある同修から聞いた話です。彼女は「多めに煉功する度に、身体に奇跡が現れ、聞こえなくなっていた耳が聞こえるようになり、学法する時の精神状態も良くなりました」と話したのです。そこで、私はある問題を考えさせられました。「常人はどうやって自分の身体をケアしているのか? よく食べて、よく寝ることだ。疲れを感じた時に多めに寝ようという考えは、常人の思惟、常人の観念ではないだろうか?!」
師父は「修煉は最も良い休みです」 [1]とおっしゃっています。長年修煉してきた弟子として、私は師父の法理に従ったり、大法からエネルギーを得たりする代わりに、常人の方法で疲労問題を解決していたのです。
また師父はこのようにおっしゃっています。「修煉は厳粛であり、漏れがあってはならないからです。あなたはそれらのことを長い間修めていません。小さいことですが、あなたは長い間重視していません。これで大ごとになりました。多くの人がこれで命を失いました」 [2]
常人は養生が大事だと考えますが、修煉者は「精進」を重んじるべきだと悟りました。常人の観念を崩さなければ、修煉者は自分自身をこわしているに等しく、いくら多めに寝ても意味がなく、自分自身を真に大切にしていないからです。
二、大法関連の仕事を行うことは修煉の代わりにはならない
先ほど言及した同修ですが、彼女は、日々朝から晩まで真相を伝えるプロジェクトや、蓮の折り紙で忙しくしていました。手元の仕事を終えてから学法しようと思っているうちに日が暮れてしまい、仕事を終える深夜には眠くなってしまい、結局、学法も煉功もできずにその日が過ぎてしまいました。何度も泣きたくなるほど悲しくなりました。彼女は、深刻な病業の関に陥ってから、ハッと気づいて、やっと目が覚めたのです。
ふと思ったのですが、私自身もそうでした。いつもすべてのことを終わらせてから、心を静めて法を学び、煉功しようと考えていましたが、事が思うように運ばず、そうすればするほど、事を処理しようとする心が強くなっていたのです。
師父はこのようにおっしゃっています。「皆さんは大法弟子なので、法を離れて事を行なってはいけません。皆さんはまだ最も表面にあるまだ変化していないこの部分を絶えず変えているので、法の勉強を離れてはいけません。必ず法を良く勉強すべきです。法を勉強している過程で、皆さんは絶えず自分にある良くない要素を消滅し、まだ変化していない最後のこれらのものを変えることができます」 [3]
師父の重みがあるお言葉に、私は心を打たれました。私はことを成す心をコントロールし、常に修と煉がもっとも重要であることを、念頭に置かなければならないと感じました。大法の仕事を行うことは、修煉の代わりにはならないのです。
もう一つは、内に向けて探す問題です。同修の間でも、時には他人が少しでも間違っていれば、直ぐに気づきそれを覚えているのです。自分に問題がある時はなかなか気づかないのですが、もし、気づいたとしても自分自身を許しても、他人を容認しないのです。私たちは修煉中の人間であり、誰もが欠点を持っています。どんなに忙しくても、必ず自分の漏れを探し、自分自身を修めなければなりません。
個人的な体験に過ぎず、法に符合しない部分があれば、ご指摘ください。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『北米第一回法会での説法』
[2] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」