同修との間の問題を見て 自分の内に向けて探す
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2024年7月1日】以前、ある同修が「同修との間の問題が一番解決しにくく、同修とのしこりが一番打破しにくい。解決のしようがない」と言っていたことを思い出しました。これらの問題に対し、「同修との間のトラブルで露呈した執着や観念は、修煉者の心性を向上させる機会として捉えず、衆生を救う基点から問題を見ていなかった」と、私自身に欠けていた問題の一つであることがわかりました。

 ある年、地元の若い同修数人の逝去や修煉者に対する大規模な連行事件、同修の互いに受け入れないことなどのいくつかのマイナスな現象について考えたとき、私はふと、「これは漏れがあり、自分もその中にいる。内に向けて探さなければならない」と、目覚めました。そこで同修と話し合い、切磋琢磨すべきだと思いました。

 こうして私は、自分自身に多くの問題があることに気づきました。まず、私は落ち着いてよく法を学ぶことができず、内に向けて探しても深く探すことができず、時には内に向けて探そうとしませんでした。私はいつも量を追って任務を完成する形で法を勉強し、その背後に自己防衛という利己心と恐怖心があり、修煉の基点がすべて利己的で、大法弟子としての責任感が薄かったのです。

 法輪大法は、私たちに常人の執着を取り除くことを教えていますが、私には大法を利用して執着を満たそうとする心があります。さらに、正法の修煉の中で消極的に耐える気持ちがあります。その現れとして、体のあっちこっちが痛くなったり、年の割には老けている現象が起こったりするのですが、それに対して私は無力な状態で、業力の消去だとしか思っていませんでした。同修からは「法理がはっきりわかっていないからだ」と言われました。

 私の消極的な心構えは、主動的に大法と同化して自分を修めることができず、主動的に悪を根絶することができず、師父の望んでおられることを第一に考えず、「三つのこと」をよりよくできないことです。内に向けて探し、「大法の仕事を行うとき、同修との協力が長く続けられず、トラブルが生じると、あの人はどうしてこうなんだろう、あの人が悪いのだと外に目を向け、いつも他人を変えようと思っていました。同修との交流を通じて、「自分が見ていたのは他人の欠点で、自分自身の欠点に対しては見ていなかった」とわかりました。

 「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」(『精進要旨』「時間との対話」)。今後、私はこのように行なっていこうと思っています。その上、同修との交流も必要だと考えています。

 以上、私自身の修煉におけるちょっとした体験ですが、次元が限られているため、偏りと不足があれば、同修の指摘をお願いします!

 合掌!

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/6/3/478066.html)
 
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