「自我」は修煉における大きな妨げである
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年5月23日】最近、あることに対して私の認識はますますはっきりとしてきています。それは、自分の修煉における根本的な執着は自我への執着であり、その執着は私が正法修煉の奥深い法理を深く理解し、自分の本性を大法に同化させていくことができない根本的な妨げとなっています。

 2カ月ほど前、精進していなかった私は旧勢力に隙を乗じられました。ある日、グループ学法を終えて家に帰ろうとしたとき、急に腰を真っすぐにすることができないと感じました。腰が90度に曲がっていて、背筋を伸ばして歩くことができなくなりました。慌てふためいた私はなぜだろうと思いながら、「師父、どうか私を助けてください! 他の按排は一切要りません。認めません」と師父に助けを求めました。

 正念を発しながらゆっくりと歩いていくと、500mの距離に30分もかかってしまいました。まっすぐ立っていられないほどの腰の痛みに加えて脚も痛くなり、夜になると痛みがさらに増していました。最初の数日は夜も眠れず、師父に助けを求めたり正念を発したりしていました。数日後には状況が少し改善されましたが、衆生を救いに出かけることができず、イライラが募っていました。また、内に向けて探す過程で、恨む心、情、利益を重んじる心など、多くの人心を見つけました。

 実を言うと、師父はすでに事前にご啓示を下さったのです。去年の冬、下の階に住む人が、「お宅の水道管は水が漏れているでしょう。うちの家は水浸しになっています」と言ってきました。これがつまり、私には漏れがあるということではありませんか? 当時、内に向けて探してみましたが、根本的なものは見つからず、そのまま見過ごしてしまいました。別の日に、料理していた私は、家にある小さな黒い鉄鍋の縁辺りに大豆の粒ほどの穴が開いていることに気づきました。これも漏れのご啓示ではないでしょうか? しかし、前回と同じく、多くの人心を見つけたものの、根本的なものは見つかっていない感じでした。あまりにも多くの人心が蓄積されてきたので、今回、旧勢力に大きく隙を乗じられるようになったかもしれません。

 ずっと考え、内に向けて探していたある日、私の頭にある念が浮かんできました。「私(し)のため、自我のための観念だ!」と、私はやっと見つけました! まさにこの観念です。交流のとき、同修たちがずっと話していた「観念を改めよう」ということから、私はヒントを得ました。師父はこのようにおっしゃっています。「宇宙の過去は私(し)のためのものでした。人間について言えば、肝心なとき本当に他の人のことを振り切ってしまうのです」[1] 旧宇宙は私(し)のためのもので、新宇宙は他人のためのものです。どんな事においても私たちは随時に大法に照らし合わせるべきであり、法を以って測り、法に則って修めるべきです。

 何事も他人のために考え、他人のために行うべきだと分かりました。各種の観念が現れてきたときに法を以って測り、師父の法に符合していれば、すなわち観念を改めていると理解しています。

 師父は私たちにこのように教えられています。「皆さんは人間の状態を変えようとせず、理性からも大法を真に認識するまで昇華しようとしなければ、機会を失うことになります。皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」。「もしも、みな一人一人が心から法を認識することができれば、それこそが威力無辺の法の体現であり─強大なる佛法のこの世での再現なのです!」[2]

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「警告の言葉」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/21/423524.html)
 
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