文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年5月30日】黄暦の新年を前に、私の左膝は腫れて痛みましたが、当時気にもせず、数日過ぎたら良くなると思っていました。以前にも体に病業の仮想が現れたことがありましたが、学法をして、長くかからないうちに全て乗り越えることができました。しかし今回は年を越しても、良くならないばかりか、更に痛みが増し、脚は鉛がぶら下がっているように、歩けなくなり、身にしみる痛さで、座ると起きることもできず、家族に引っ張られて起きました。
娘は私に病院に行って検査してほしいと言い、夫と息子は私にあれやこれやが不足していると言い、私は自分の修煉に問題があると思い、自分を探し始めました。常人の正月祝いに忙しく、学法を疎かにしたのではないか、それともアメリカの大統領選挙の事に陥っていたのか、利益の心に執着しているのかを考え、たくさんの人心を見つけ、同修と学法、交流をしましたが、好転せず、とても困惑しました。私は学法をし、交流もしているのに、どうして良くならないのかと思いました。
この時、私は数日前に、利益の為に夫と言い争った事を思い出しました。
夫は兄弟で小さい工場を開き、兄は外の仕事をメインに、夫は内の仕事をメインに、始めてから20年続いており、ここ数年お金の方面は兄が決め、私達は兄がくれるだけ貰い、幾らもらおうと、気にしたことがなく、自分は修煉者であると思い、表では気にしないようにしていましたが、心では全然この利益を放下していませんでした。
正月に、家族は私に、兄が私達をごまかして彼の子供に家を買ってから既に数年になるが、誰も知らないと話しました。そして会計を彼の娘に任せ、彼の息子の名義で家を数戸も買い、私達に任せると同意した会計は、任せてくれなかっただけでなく、彼の娘に任せました。私はこれらのことを聞いて、心が落ち着かず、怒りが増し、兄が少し酷いと思いました。この心の苦しを同修に話すと、同修に笑われると思い、しかし、言わなければ放下できず、面子に妨げられ(常人の心)、それでこの心を閉じていました。難に遭った時本当にこの心を放下できるかどうか、動じるかどうかを見て、心は苦しくて疲れても、放下できなければ、更にこの方面に関する難に遭う事になります。
夫が家に帰ると、私はこのことが我慢できず、言い争い、言うほど腹が立ち、兄はこのようにしてはいけないと思いました。しかし夫は私がこのように怒るのを見て冷静に言いました。「あなたはそれでも煉功者なの! 正にこれくらいの心性なのか? お前が使う金が足りないのか? それとも住む家がないのか? それとも運転する車がないのか? 多くの金をもらって何をするのか?」というので、私は更に怒って「私になぜ金が要るのかとを聞くの、息子が大学に入ったばかりなのに、金はいらないの? 今後また車と家もいるでしょう」と言いました。この時夫は笑い「あなたはいつも私に、人にはそれぞれの運命があると言っているではないか? 自分のものは正に自分の物で、自分のものでないものは争っても駄目で、自分のものではないよ」と言いました。
この時私は悟りました。師父は彼の口を借りて、早く心を正しなさい! と私を教化されたのでした。心の中で修煉者としてこのようにしてはいけないと知っていながら、しかし心の怒りは何としても抑えることができず、旧勢力の罠に嵌まりました。しかし当時はともかく自分のこの利益の心を修めて放下し、次元を向上させるべきであると悟らず、師父はこの事を利用して私のこの利益の心を無くして下さいました。
心を放下し、再び振り返って見ると、自分がもし法を学ばなければ、利益の中でどれほど疲れて生きたことでしょう。この利益の心を放下したとき、脚もずいぶん良くなり、心も楽になりました。
しかし数日も経たず、私の脚はまた痛くなり始め、今回は更に酷く、腫れもとても大きく、心では少しイライラし、どうして良くなったのに再び戻ったのかと思いました。仕方なく、自分に落ち着くように無理強いし、自分のどんな心がまた放下できなかったかを探すと自分に多くの心が全部あり、しばらくの間どう修めたらよいかが分からなくなりました。同修の交流文章を聞いて参考にしよう! 同修とギャップがとても大きいと思い、聞いている内に、自分もこつこつと着実に自分を修めるべきで、信念を堅め、自分の日常生活の中で、一思一念から修めようと思いました。
その日から、私は正に時間どおりに早朝の集団煉功に参加し、膝が酷く腫れていたので、第四式の功法はしゃがむことができませんでしたが、最後まで続けました。正に私が一思一念を修めようと決めた時、初日にすぐ数件の事にぶつかりました。
夫の弟の家で、小姑が弟の嫁に買って送った化粧水は、国際的な有名ブランドだと言い、その上兄嫁も同じセットの化粧品を買ったと言いました。私はそばで聞いて心のその気持ち悪さを感じ、この時私はすぐ、なぜ不快なのか? 何の心で不快を感じているのか? と自分を探しました。この良くない心はこれ以上要らず、嫉妬心を意識してすぐそれを取り除くと、たちどころに心がひとしきりの気楽さを感じました。
そのすぐ後に隣家の甥の妻が、私に服のドライクリーニングを頼みながら、先に私に金をあげると言いました。弟の嫁は冗談で「先に叔母さんに金をあげないで、金をあげると彼女は使うよ」と話しました。この時私はすぐ彼女に「そうね、あなたが先に私に金をくれると、私は今ちょうど金が足りないので、使ってあげますね」と一言返しました。明らかに冗談だと知っていながら、心の中ではただ不快でした。夫の4人姉妹の中で正に我が家だけが金が少ないと感じ、心の中ではいつも説明しにくい味わいを感じました。実は正に修煉者が取り除くべき人心で、今日すぐこれ等の良くない心を一緒に修めて無くし、自分を直し、真修弟子になろうと思いました。
このように1日を修めると、かなり身が軽くなったのを感じ、夜師父の説法を聞くと、師父は「心性が低いと、その次元も低いのです」[1]とおっしゃいました。この法は直ちに私の頭の中に入り、全身を貫き、そのような感受は言葉で表現できません。突然頭がはっきりするのを感じ、「ああ! 元々私の心性が余りにも低く、次元が低いと、当然身体上の正しくない状態も、行為を含めて制御できないのだ」と独り言を言いました。以前師父のこの法を一日中口にし、同修と交流しましたが、どうしてこの感受はなかったのか? と思いました。正に自分が法の中に溶け込まず、自分を実修せず、このような感受もなかったのです。
翌日、続けて日常生活の中で一思一念を修めたら、いつの間にか脚は良くなり、十数斤(2斤=1kg)を降ろしたようで、心身ともに楽でした。この事を通じて私は、自分を実修してこそ艱難を乗り越えることができ、正々堂々と法の超常と素晴らしさを実証することができるのを本当に分かりました。
以上は最近私の身に起こったちょっとした出来事で、もし不適切な処があれば、同修達の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』