文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年6月11日】以前の修煉の中で、夫の無礼な態度が家庭に災いをもたらした時、私はいつもこう考えていました。「この件で夫が過ちを起こしたとしても、修煉者である私は最大限の寛容さをもって夫を受け入れ、善意をもって夫を改心させるべきだ」と。 だから私はずっと我慢して、彼に良くしてあげようと努力してきました。 しかし、彼が私に乱暴な態度をとると、私は自分をコントロールできなくなり、彼と言葉で衝突をしてしまうことがよくありました。
今では、自分の考え方が徹底的に変わりました。 夫が何をしても、すべての責任は私にあると考えるようになりました。 彼があのような行動をとったのは、私が法の基準に達していなかったからです。彼があのように悪いものに支配されてしまったのも、私がここで十分な正のエネルギーを発揮できなかったからです。 このようにして、悪いのは全部自分で、相手が正しいという新しい宇宙生命の素晴らしさを感じることができ、またそうすることで、相手に良い気分をもたらすだけでなく、自分の中にこれ以上ない開放感と安心感が生まれるのです。 これこそが生命の真の美しさだと悟りました。
私は師父の「正しきは彼、過ちは私」[1]という説法を、以前は100パーセント受け入れていなかったことに気がつきました。 完全に間違っているのは自分だとは思っていませんでした。「自分は執着心を持っている」という自覚があるため「自分は間違っているに違いない」と受け入れただけでした。ゆえに、他人が何か間違いを起こした時に、常に自分が正しいという前提のもとで自分を探していました。無理に、夫が犯した過ちに対し耐え忍んでいました。 この様な考え方は、心の容量に制限を掛けてしまうことになり、我慢が蓄積され一定のレベルに達したときに、崩壊されるものです。
すべて自分の間違いだと心得ている今、逆に彼に怒りをぶつけることは絶対にできません、彼への理解や優しさも人心に制限されることはなく、本当に彼のことを思いやって、慈悲をもって接することができるよになりました。それにつれて、彼から私への心からの尊敬を得ることができました。
以前、私は彼にあえてあのような扱い方をされたのは、私の心性が低くて見下されていたためだと認識できました。そして、今、彼が私の前で自ら自分の言動を自戒できるのは、私のいる高さの境地に対する敬意による現れだと気づきました。 また、修煉者の心性が高ければ、常人の方法に頼って相手を変えたり律したりしなくても、周りの衆生が自然と私たちに合わせてくれることも実感できました。
以前から自分にもう一つの問題が存在しているのです。 同修に執着を具体的に指摘されたとき、正しければ受け入れて感謝の気持ちでいられますが、全部否定された時に受け入れられませんでした。 これは、自分の本質的な利益に固執し、自分を変えることを拒むということだと思います。
師父は私たちに「もし修煉者が表面で放下しているだけで、内心ではまだ何かを守り、固守していて、自分の最も本質的な利益が傷つけられないようにしていれば、皆さんに教えますが、これは偽りの修煉です!」と告げられました。 [2]
常に自分が本質から正しいと思っていて、表面上のある執着心だけを取り除くことは、ここで師父が話されている偽りの修煉と同じで、真の修煉者とは言えないのではないかと思いました。 実際、法の内包は無限に深いものであり、ひたすら実践するだけで良いのであって、その終わりはありません。 上の次元から見ると、それより下の次元は正しいものではありません。ゆえに、絶えず法の中で高い次元を目指して突破し続ける修煉者として、高い次元から見ると、今の次元ではすべてが間違っているのです。 それをきっかけに、私は修煉に対する考え方が徹底的に変わり、今までの全ては自分が至らなかった、間違っていた、ということが内心からわかってきました。 今では法を多く学び、先入観にとらわれることはなくなりました。
また、法の中で精進するということは、自分が求めていたものをすべて手放すことであり、円満成就を強く渇望するとか、法から良いものを得たいという強い願望とかを持たないことだと思います。自分は法に求められた要求に照らし合わせ続け、一層一層各次元で自分の足りないところ見つけ、自分を修め、その次元の法に同化して、そして法を再び学んだときに、また自分の本質にまだ不足があることを知り、その次元の法に再び同化し、そして法をさらに勉強して、まだ自分の本質に不足があることを知り、再び自分を修め、法に同化していきます......。
それと同時に、私のもう一つの認識も一変しました。 私は、周りの同修が私のことを指摘している時は、実はこれは自分が修煉の道で精進している証であり、逆に同修にもてはやされることは魔の道へ向かう現れであって、用心すべきだと気付きました。
今、私は同修を見る目が一変し、同修のことを順位付けすることはなくなりました。 以前の私は、精進していないと思っている同修に自分の問題点を指摘されても耳を傾けようとしませんでした。 しかし今では、自分が間違っていると分かったときは、自分を一番下の立場に置き、どの同修から指摘されても、人を見下して、高く留まってることなく、内に向けて自分の欠点を見つけながら、しっかりと耳を傾け、よく考えることにしています。 この宇宙では、修煉者として心の中で自分を一番低く位置づけるべきだと悟りました。
長年、色々挫折を経て、今になって初めて本当の修煉者にあるべき状態がようやくわかりました。
個人的な少しばかりの悟りですので、不足なところがあれば、同修の慈悲なるご叱正お願いします。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」
[2] 李洪志師父の著作:『北米第一回法会での説法』