文/ニューヨーク オレンジ郡の大法弟子
【明慧日本2021年6月27日】
尊敬する師父、こんにちは。
同修の皆さん、こんにちは。
修煉してから瞬く間に25年間が経ち、執着心を放下できないことによる心の苦しみ、法理が分かった時の愉悦と幸せ、大法に同化した時の安心感、大法弟子になれたことの栄光、漏れなく全部体得しています。修煉の心得は多いのですが、その中からいくつかの例を挙げて、皆さんと交流したいと思います。
1、正念がどれだけ強いか、大法の奇跡がどれだけ現れる
『法輪功』を読む時、「性命双修」という法輪大法の特徴は心に深く根を下ろし、「このことから大法の素晴らしさと奇跡を実証したい」という一念が心の底から生じました。それ以来、「性命双修」を実現させる決心は確固たるものになりました。修煉の当初私は30代で、20代の身体の状態に戻ろうとは思いませんが、今後、常人のように老けたりしないことを目標にしました。迫害が起きてからも修煉を続けており、迫害を恐れたりしましたが、修煉の意思が揺らぐことはありませんでした。
修煉してから数年後、10数人の同僚と一緒に仕事を辞めて新しい会社を創立し、次々と新人が入ってきて、私の年齢を知って「あなたはほかの創業者より若いと思っていたが、彼らより4、5歳ないし7、8歳も年上だとは思いもしなかった」と言って、びっくりしていました。ある同僚は「あなたと7、8年前から付き合っているが、あなたの顔は初めて会った頃からまったく変わっていない」と言われました。またある日、私はA社長と取引先を訪問すると、取引先の社長は私の肩を叩いて、「A社長によく教わりなさい。彼が引退したら、あの会社はあなたが引き継ぐのだから」と言われて、私は「A社長より3歳若いだけで、A社長が引退する時には、私も定年退職する年齢になるでしょう」と言うと、皆が驚いていました。今の私は50歳を過ぎていますが、30代に見えるとよく言われます。
2、苦を以て楽とする
中国にいた頃、毎日オフィスに居て、力仕事はほとんどありませんでした。海外に来てからフルタイムでボランティアとして法輪功のプロジェクトに参加し、建設の仕事を始めてから生活スタイル、修煉環境、修煉の形がすべて変わりました。そのプロジェクトは開設の初期であったため、ほとんどの仕事は肉体労働で、汚くて疲れます。週六日制で、出勤してからほとんど休憩時間はなく、夜になると手が痛い、腕が痛い、腰が痛い、全身に痛くないところはなくて、翌朝になると、指の各関節が腫れて痛いと感じます。このプロジェクトに参加すると決めた時、どんな困難も耐えていくと覚悟していたので、体が疲れても内心では楽しくて、毎日の仕事を何でもやりました。
一部の作業にある程度の危険性が存在します。体の疲労により反応も鈍くなり、よく手を切ったり、足をぶつけたり、つま先を打ったり、頭をぶつけたりすることがよく起こります。
体の疲れは何でもないですが、心にしこりができたら、肉体と心(精神)の二重のストレスでは乗り越えにくいものです。これは工事の実際の状況ですが、計画性が欠けているため、仕事が二度手間になったり、間違って作ったものを修正したりして、多くのトラブルが起きました。疲れた体を引きずってこのようなことをしているうちに、「こんなことをする意味があるのか。これは大法を実証し、衆生を救い済度することに関係があるのか。いつも人手不足なのにこんなやり方は、大法弟子の時間を無駄にしているのではないのか」と心に疑問が生じてきました。
心のしこりが解けないと、肉体の苦痛が大きくなります。「大法の仕事はとても多いので、このような時間を無駄にする仕事を辞めて、ほかの仕事に乗り換えよう」と思った時、同修と交流したことがあります。「どのプロジェクトも同じで、最初はこのように混乱したりするが、だんだんと順調になる」と言う同修もいれば、「チベット仏教のミラレパのように師父のどんな指示にも従って、家を建ててから解体して、解体してから建て替えて、何の文句も言わない」と言う同修もいます。
しかし、いずれの言葉にも私は納得できません。「ほかのプロジェクトでも、このような能率の悪いことが起きていた場合、そこから教訓を得ているにもかかわらず、今のプロジェクトで同じようなミスが発生し、今も改善せずに、平気でこのような能率の悪いやり方を繰り返すのだろうか」と思いました。
ミラレパの修煉と言えば、彼が選んだのは限界まで苦労して、苦しみを嘗め尽くすという修煉法で、我々の法輪大法はそのような修め方は取らず、心性を高めることを重視します。また、家を建ててから解体して、解体してから建て替えるというのは、ミラレパの師父が意図的に彼に与えた修煉の一環です。一方、私たちの現状は計画性が足りなくて、互いの意見も聞き入れず、自我に執着することによって発生したトラブルで、ミラレパのこととは比較になりません。
心のしこりが解けないため文句と不満が生じて、とうとう同修たちとの関係がギクシャクするようになりました。同修たちに理解してもらうどころか、同情さえもしてもらえません。「そんなに苦労だと思うなら誰も頼んでいないよ」とか、「これが大変だというなら、以前来た同修たちは今のあなたたちよりずっと苦労したよ」などと言われました。どうしよう、今の不満を抱えているままではもう行き詰って、前に道がないので、内に向けて不満を解消するしかありません。そして、「修煉者として楽に暮らしてどうやって功を伸ばすことができるのか。心を刺激されないとどうやって心性を高められるのか、今やっていることは工事の現場担当のためでも、誰かのためでもなく、自分のためにやっているのになぜ文句を言うのか」と考え直しました。そうすることで心が落ち着いてきて、この心性の関を乗り越えました。
3、自我を放下し、プロジェクト全体に圓容する
初めてこのプロジェクトに参加した時、神聖さと誇りに包まれましたが、だんだんと仕事中の多くの不足を発見して、中国国内にいた頃の大法のプロジェクトに対して抱えた好印象は覆されました。同修と交流すれば、多くは「まず問題を見つけたら自分の内に向かって探し、不足を直すべきです。外に向けて問題を見ないのです」と言います。その言い方は間違っていませんが、しかしほんの少しの改善をして、あるいは前もってみんなで相談すれば、多くのトラブルは避けられたはずです。皆が自分のことばかり修めて、誰も意見や交流をしないで、同じトラブルを繰り返し発生させるのは、プロジェクトに対して無責任ではないかと思いました。
私心の問題について、師父はこのように説かれました。「実は皆さんはご存知ではありませんが、『私』という心が非常に高い次元まで貫いています。『私は何かをしている』、『私は何かをしたい』、『私は何かがほしい』、『私は修煉している』、『私は成佛したい』、『私は何かの目標に達したい』など、昔の修煉者は言っていましたが、実はみな『私』の心から抜け出すことができませんでした。しかし、皆さんに到達してほしいのは、真の純正、真の無私であり、本当の正法正覚の圓満成就であり、それになってはじめて永遠の不滅に到達することができます」[1]
私個人の悟りですが、大法のプロジェクトにおいて問題にぶつかる時、大法弟子はただ個人修煉の角度から考えて、自分を修めることだけを考えていれば、それも旧宇宙の私心の表れとしか言えず、その時はプロジェクトの進行に有利な角度から問題を考え、選択するべきだと思います。
本当に無私の境地に達するには、地道に修煉を積み重ねることが必要です。時には、自分はまだ高い次元まで修煉できておらず、慈悲心が足りないので、意見を言わないほうが良いと思ったりもしますが、意見を言うのは自分の賢さを証明するためではなく、プロジェクトに責任を持つため、それは正しい心の出発点なので、それほどの慈悲がなくても、それなりの役割は果たせるはずだと思い直しました。
その過程の中で、絶えず壁にぶつかり、絶えず考え、絶えず内に向けて探して、これはすべて師父が按排された修煉環境だと次第に分かりました。私たちはそれぞれ異なる年齢、人生経験、思考パターン、性格を持って互いにぶつかり合い執着を暴露し、もし皆がこのチャンスを掴んで自分をしっかりと修めることができれば、各自の次元を大きく高められるだけではなく、我々のプロジェクトも上質な内容で完成できると思います。修煉の過程に存在したトラブルや不足は、ちょうど修煉者を圓満成就させるための難であり、私たちは互いに包容し、互いに圓容しなければならないと思います。
私心の枠から抜け出すと、視野がパッと開けました。まるで大芝居の舞台を見るように、すべてが秩序よく上演しており、自分の悟りに執着したり、何かの結果に執着したりする必要が本当にありません。これからは遠慮を捨てて、言うべきだと思う時に意見を言えば良いと思います。そして、その意見が良い結果を結ぶことができれば必ずそうなる理由があり、結果が悪ければそうなる悪い原因もあります。これから言いたいことを言うだけで、結果を求めない、その超脱の境地はいかにも美しいです。今後の修煉の道でさらに精進し、いつもその美しい状態を保つよう努力したいと思います。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『スイス法会での説法』
(2021年ニューヨーク オレンジ郡法輪大法修煉体験交流会の原稿)