【明慧日本2021年9月7日】1997年の頃、私はまだ30代でしたが、全身に病気を抱えていました。エリテマトーデス(膠原(こうげん)病の一種)、婦人病、副鼻腔炎、心臓なども悪く、いつも熱があり、めまいがしていました。生活は裕福ではないので、病気を直す治療費もありませんでした。当時は、幼い子供の面倒をみなければならず、病気に苦しめられ、気性が荒くなって、生活がどれほど絶望的だったかは想像に難くありません。
その時、法輪大法を修煉していた隣人が、この状態の私を見て、すぐ大法を紹介してくれました。翌朝、夫と一緒に煉功場に来てほしい、夜はグループ学法にも参加してほしいと誘ってくれました。私は翌朝、行くと約束しました。しかし、夫は行きたくないと言い出しました。私は「約束をしたじゃないの、こんなに寒い日に、あなたを待つのはつらい」と言いました。それで、夫は行くことにしました。冬の朝はとても寒くて、煉功場で皆煉功しており、私は後ろで動作を真似していました。
夫が仕事に行ってから、私は朝、学んだ輪を抱く動作を一人で煉功し始めました。しばらくすると全身が震えだしました。目を開けて見ると、全身に赤いブツブツが密集しており、胸を針で刺されているような感じでショックを受けましたし。しかし、その時は未だ本を読んではいませんでしたが、内心ではこれは良いことだと思いました。大法にはきっと師父がおられるので、心の中で「師父、どんなことが起きても、私は最後まで修煉します」と言いました。すると、熱い電流が全身を巡り、目を開けると赤いブツブツが全部消えていました。私は師父への感謝の気持ちを伝えきれないほど感動しました。
修煉するにつれて、全身の病気があっという間に消えていきました。ある時、同修が私に『轉法輪「巻二」』を貸してくれました。本をめくると読めない文字がたくさんあり、悲しくなりました。しばらく読むと寝てしまいましたが、突然寒気がして目が覚めました。すると文字が「明慧週刊」のタイトルの大きさになり、自分の細胞が動いているのが見え、目で見たものが全部拡大しているように感じ『轉法輪「巻二」』の内容も分かりました。師父が私を励まして下さったのだと思います。
私の2人の子供も修煉していますが、長女との心性の摩擦がいつも絶えませんでした。何度か同修の家で一緒に学法し交流した時、娘は過去の出来事を話し、だんだんとテンションが上がり、同修の前で私を激しく叱責して、泣き出してしまいました。私はその時、頭が真っ白になり混乱しましたが、多くのことはまだ修煉前か、修煉し始めた頃のことであり、些細なことばかりでした。私はその時、主人がそばにおらず、娘達を育てるのに精一杯努力して来ました。その辛さは自分でしか分かりません。娘の記憶の中には私の悪いところしか見えず、母親としての良いところは覚えていないのでしょうか。私はとても悲しくて、同修の前で子供に叱られ、恥ずかしく思いました。当時、私は情に操られており、これは心性の関門だと思い、我慢して言い返しませんでした。
実はその前にも数回、私を叱責したことがあり、私はずっと放下できませんでした。1つの関門を乗り越えられず、次の関門もやってきて、しかも更にひどくなりました。家に戻り、考えれば考えるほど悲しくなり、悔しさ、憤りが一気に湧き上がってきました。もう二度と娘と一緒に学法に行かないと思いました。毎回、学法するたびに叱責されました。娘は大人になって恩知らずになり、同修にこれからは学法に行かないと伝えました。その後、少しずつ心を落ち着かせて学法をした時、私は修煉者としてではなく、母親として扱いすぎていたことに気づかされました。法に則って見ておらず、いつも人心で問題を考えており、私は彼女の母親なのに、どうしてこんな扱いをされるのだろうと思っていました。私たちは親子だけではなく同修でもあり、同修であればお互いに向上する要素があるということに気づきませんでした。
師父は「あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです」 [1]と説かれました。
私は修煉者であり、常人の考え方、常人の心で物事に対処してはいけません。常人の心でこの問題を考えると、これは本当に間違ってしまうのではないでしょうか。これは誰が一番嬉しいのでしょうか。まさに旧勢力が一番嬉しいので、私たちはまんまと騙されました。私たちは互いに同修であり、何よりもまず修煉者であることなのです、そう思うと全てが分かりました。そこで娘に電話をかけ「愛は情であり、憎しみも情であり、あなたが言ったことは本当の自分ではなく、認めてはいけません。私たちは旧勢力に惑わされないようにしましょう」と言いました。師父は私が内に向けて探し、情を放下したのを見て、その隔たりを取り除いてくださったのです。それからは二度とこのようなもめ事は起きませんでした。娘も私に謝ってくれて、あの時、あんなに怒るべきではなかったと謝罪しました。実は「なぜなら業力が誰かのところに落ちていれば、その人は必ず辛い思いをするからです」 [2]私はすぐに師父の『精進要旨』の中の「内を修めて外を安定させる」 [3]の法理の内包を理解し、私たちがこの問題で、同時に心性や情の関門を乗り越える為、師父が按排して下さったのだと悟りました。
ここ数年間、心性の関門では、特に家庭での些細なことに心を傾けました。ときには、上手く乗り越えられ、ときには乗り越えられず、その時は後悔しますが、これはまさに修煉ではないでしょうか。それは師父の法を多く学び、法理を理解することで、向上できるのです。私はいつも同修に「私は師父がおっしゃった腐ったりんごでしたが、師父は私を良いりんごに変えて下さいました、師父は私の家族を救ってくださいました。いかなる言葉を使っても感謝しきれません、ただ精進し続けるしかありません」
以上は私の個人の悟りであり、不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作『精進要旨』「再認識」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「内を修めて外を安定させる」