修煉の中の問題は学法と実修を通じて答えを見つける
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年11月29日】最近、当地区の一部の同修が修煉において何か問題に遭ったとき、学法して内に向けて自分を探すことを重視せず、いわゆる仲の良い同修から答えや解決策を求めようとしています。

 このことについて、私自身の体験と感想を書き出し、同修の皆さんと交流したいと思います。

 一、学法しても心に入らず、回数を重視する

 一部の同修は学法の長さ、程度を重視しているだけで、師父の説法と自分の言動を照らし合わせて、自分の不足部分を取り除き、常に精進することを保とうとしません。そのため、心性に突き刺さる問題や難関に遭ったとき、無意識にそれを避けてしまうのです。中には『轉法輪』の通読回数を定める人もいて、1日に一通り読むとか、1日に2回通読するとか、交流の時、これを自慢します。

 師父は説法の中で、弟子からの質問に対して、このように答えられました。

 「弟子:ある人が、先生は『轉法輪』を一通り読み終えるのに一日半では遅すぎるとおっしゃったと言いました。

 師:私はそんなことを言っていません! 速すぎると思います。(拍手) 私は皆さんに時間を無駄にせず本を読むように話しましたが、その人はすぐ極端に走りました。読んで、読んで、読んで、読んで、一生懸命に読んでそれぞれの字さえ分からないようでは、あなたは何を読んでいるのでしょうか? あなたは法を学んでいるのではありませんか? 法を学び、法を学び、どのように学んでいますか? あなたは自分が何を見ているのか分からないようでは、どうやって修めますか! あなたは今何を見ているのか分からなければなりません! あなたはどういう字を読んでいるのか、表面的にどういう意味か分からなければなりません! そのようなやり方ではどうして法を学ぶと言えますか? それではまだ読む必要があるのでしょうか? 本を手に取り、パラパラとめくって終わってしまえばそれでいいのでしょうか。こういう道理ではありませんか?」 [1]

 師父の弟子なら、師父の教え通りに行うのは当然のことではないでしょうか。それとも、多めに勉強すれば、師父が自分の良くないものを取り除いて下さることを求めているのでしょうか。もし、何も求めていないのなら、真剣に修煉し、まじめに法を勉強すべきです。師父は「大法は他でもなく修煉なのです。大法の中に修煉以外は何もありません」 [2]と説かれました。

 二、大々的に仕事をしてこそ大法弟子だと無意識に思う

 一部の同修はここ何年かの間、個人の修煉を重視せず、どれだけ大法の項目に取り組んできたのか、どれくらいの資料を配ったのかばかり重んじ、多くやればやるほど、自分は良く修めていると思い込んでいます。そのため、普段から人を見下すような態度をしています。また、留置場から釈放されたばかりの同修も直ちに項目に携わり、時間が経つと質より量を重視し、虚栄を張る心理に麻痺され、自分の不足部分に気づかなくなり、実修の最も重要な部分を忘れてしまいます。それにより、普段、内に向けて自分を探さなくなり、自分の執着に突き刺さるようなことに出会うと、すぐに避けて自分を探そうとしません。

 師父は何度も私たちに、いかなる時もまずは自分を修め、トラブルに遭ったときはまず自分を探してこそ、師を助け、法を実証することができると説かれてきました。ですので、私たちはまず自分をしっかりと修めなければなりません。

 三、実修してこそ、答えが見つかる

 一部の同修はトラブルに遭うとすぐにほかの同修に助けを求め、一刻も早く解決しようとしています。しかし、同修に不足部分を指摘されたときは、口実をつけてその場をしのぎ、自分の執着と向き合おうとしません。言い換えれば、執着を取り除く苦を嘗めたくなく、楽にできる解決策を探そうとしているのです。

 修煉は誰も代わってくれません。たとえ師父がそばにいてくださっても、直接解決策を教えないのです。従って、私たちは実際の出来事の中で少しずつ執着を取り除き、そこから自分の問題を見つけるのです。大きいことであれ、些細なことであれ、師父は説法の中で「実は一つの問題をしっかり把握して、つまり心性から探せば、どんな問題でも解決できます」 [3]と説かれました。

 四、師父を敬うこと

 自分自身の修煉にいて、何か良くない状況が現れたとき、師父は何かの方法で弟子たちを導かれます。しかし、一部の同修は日常の実修を重んじず、問題の表面しか見なかったり、より簡単な解決策を探したりなどしているため、師父の導きがあっても、あるいは、師父の導きだと気づいても、簡単に悟るだけで、根っこから変えようせず、執着心を見つけ出して完全に取り除こうとしないため、結局は以前の道をたどるだけです。これは、はっきり言えば、師父に対する不敬です。師父は私たち以上に私たちのことを思ってくださっています。それなら、どうして師父の導きを私たちへの励ましとし、別の悟り方としてみなさないのでしょうか。

 師父の導きには多くの師と弟子の恩や、精進の意、弟子に対する心配と励ましが含まれています。そんな師父からの導きを無駄にしてよいのでしょうか。皆さん、ともに精進していきましょう! 精進してこそ多くのことを悟れるのです。そうでなければ、表面上の師父への感謝に留まるのです。

 自分の悟りを書き出したのは、同修たちに常に法を師とし、トラブルに遭ったときは内に向けて自分を探し、自分に問いかけ、真剣に法を勉強し、実修していこうと伝えるためです。自分が本当に師父の弟子なのかどうかを決めるのは私たちではありません。しかし、師父の弟子だと思うなら、師父の教え通りに行い、しっかりと自分を修めていきましょう。師父は「いかなる心も放棄し、何も考えず、ただ大法弟子として行なうべき全てを行なえば、全ては既にその中にあります」 [4]と説かれました。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『シンガポール法会での説法』
 [2]李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法

 [3]李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「長春法輪大法輔導員のための説法」
 [4]李洪志師父の著作:『導航』「ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/11/5/433201.html)
 
関連文章