文/海外の大法弟子
【明慧日本2021年12月18日】私は幼い頃に大法に出会い、幸運にも20年以上も法が正される進展に随い修煉してきました。修煉過程での慈悲なる師父による保護と導きに感謝し、自分の経験の一部を書き出して若い同修たちと交流したいと思います。
私の成長過程は、子供弟子を持つ同修たちの参考になるかもしれません。子供弟子を育てるのは、見かけほど簡単ではありません。子供は表面から見てうまくやっていても、心の中では真に理解しているとは限らないこともよくあります。師父はこのようにおっしゃっています。「あなたに伝えているのは、あなたが常人の心で自らを量っており、修煉者の角度から問題を見るのではなく、これは修煉の中で漏れがあるということです」[1]
修煉し始める機縁は、人それぞれです。子供の頃に親と一緒に大法に接する機縁に恵まれた私たちは、大人になって社会に出た今もなお修煉の道を歩んでいるのは、真に法の貴重さを理解した故の堅持なのか、それとも「取り残されることを恐れている」からか、よく考える必要があります。毎日欠かさずに本を読んでいても、修煉しているとは限りません。向上を目指す過程での数々の試練を前にして、心の底から真に目覚め、理性を保って初めて、師父が按排して下さった道をきちんと歩むことができるのです。
複雑な今日の社会の中で、人々は各種の情勢に振り回されています。修煉者でさえも、法を基点にしなければ、自身の執着や観念に動かされて冷静さを失ってしまうこともあります。
師父はこのようにおっしゃっています。「しかし、大法に従い、師父が皆さんに教えた通りに行なえば、皆さんに歩む道があり、誰も妨害することができません。しかし、この道は非常に狭く、非常に正しく行なわなければならないほど狭いのであって、そうしてはじめて、人を救うことができます。非常に正しく歩んではじめて、問題が起こらなくなるのです」[2]。近年、師父が発表される新経文を学ぶ度に、「心性を修める」という要求が格別に目立っているように感じています。
師父はこのようにおっしゃっています。「もし自分を良く修めることができなければ、威徳はありません。話したことも法に基づいておらず、衆生を救い済度することは全く論外のことです。話したことに威徳と威力がなければ、作用を果たさず、邪悪に隙に乗じられることもあります。ひいては、もし自分を良く修めることができなければ、正念が足りず、何かの問題に対処するとき、常人の考え方に流れてしまいます」[3]
メディアの仕事に携わっている私は、常人が運営するメディアの時事問題の分析を別の視点から理解するために、彼らの番組を見ています。その過程で、大法を理解していない人の意見を耳にするときもあれば、コメント欄で彼らと論争する同修の書き込みを目にする時もありました。しかし、よく考えてみると、彼らが大法の真相を理解するのを妨げているのは、まさに彼らの周りにいる私たち大法弟子の一人一人が着実に修煉しておらず、遭遇するすべての事柄において「真・善・忍」の法理をもって自らを修め向上させていないからだと思います。世人の多くは私たちの言動の一つ一つを見ています。私たち自身の修煉が不十分であれば、言葉だけでは人々の心を動かすことはできないでしょう。
時々、同修たちの交流内容から、「師父が見て下さっているから、子どもは間違いなく良い大学に入れる。あるいは、必ず良い仕事に就ける」など、「福報」に対する執着があることが読み取れます。しかし、師父はこのようにおっしゃっています。「しかし、修煉者であるあなたに教えますが、ある程度苦を嘗めるのは悪いことではありません。宇宙の理は人類のところでは反対になり、人類のこの空間の理は逆なのです」[4]、「実は修煉はほかでもなく、苦を嘗めるためにきたのであって、この世での保護を得るためにやってきたのではありません。大法を学ぶと守られますが、大法を修煉するとき苦も嘗めなければなりません」[5]。三つのことを落ち着いて行うことができる環境を深刻に損なう妨害を除き、人生における他の「福報」は、名、利、情に基づく判断基準から抜け出して見るべきだと思います。私たちが縁のある衆生に接し、その次元の環境を切り開くことができるように、師父は私たちをあらゆる業種、あらゆる階層に配置されていますが、多くの場合、それは私たちの運命にそのような要素があるか否かに左右されると思います。しかも、多くのことはその影響は一瞬にとどまらず、表面だけに留まるのでもありません。大切なのは、その過程で自分の心性を修めていくことです。
個人的な経験をもとに、以下に、同修の皆さんと交流していきたいと思います。
一、学法しても法が分からなかった
私が大法に出会ったのは、まだ小学生の時でした。学法しないと母に言われて、毎日本を読んでいましたが、「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない。よく勉強する。道徳水準を高める」といった字面の意味以外、私は深い法理を読み取ることができず、ただ、「本は人々に良い人でいるようにと教え、テレビは嘘をついている」としか分かりませんでした。その後、真相を伝え三つのことをしなければならないと知り、心の中では常に怖がっていましたが、ひるまずにやり続けていました。自分が堅持しているのは正しいことであり、すべきことだと分かっていたからです。他人から見れば、私は従順で物わかりがよく、勉強もしっかりできて、精進している子供弟子でした。しかし、試験を受ける夢を見る度に、夢の中の私は一問も理解できず、何も答えられませんでした。日常生活の中で悔しいことに遇えば我慢すべきだと知っていても、心の中はいつも「水槽の水があふれそうになっている」感じで、その容量をどうやって根本から拡大すればよいか分かりませんでした。
法に対する認識が表面に留まっていて、自身の観念も影響しているため、私は自分にとって「有利」な角度から大法を解釈してきました。例えば、本には「人の一生はすでに按排されている」と書かれていて、それが私の怠け者の心理に合い、「どうせ順位は決まっているのだから、頑張って勉強しなくてもいい」と思っていました。しかも、頭の良さのおかげで、試験前に適当に復習しておけばそこそこの良い点数も取れたので、常にいい加減に済ませていました。また、私はいつも中間のプロセスを飛ばして最後の結果にまっすぐ行こうとして、苦を嘗めることを避けようとしていました。その結果、私は依存心が強く、常に他人にすべてを整えてほしいと思っていました。
上辺からは、私は成績が良くて三つのことも積極的に行っているようには見えていましたが、実質、私はまったく法に溶け込んでいませんでした。師父はこのようにおっしゃっています。「皆さんもご存じのように、われわれのこの法門は常人社会を避けて修煉しているものではなく、トラブルを避けたりトラブルから逃げたりもしません」[6]。小賢しさで順風満帆に生きてきた私は、大学入試で出し抜けに棍棒を食らい、予想よりずっと低い無名の大学に行くことになってしまいました。
(続く)
注:
[1] 李洪志師父の経文:『目覚めよ』
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇五年マンハッタン国際法会での説法」
[4] 李洪志師父の著作:『ヒューストン法会での説法』
[5] 李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
[6] 李洪志師父の著作:『轉法輪』