青年弟子: 絶え間ない修煉の中で人生を正す(三)
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文/海外の大法弟子 

 【明慧日本2022年1月8日】(前文に続く)

 四、単身で留学し、基礎を建て直す

 海外に来てから、地元の同修たちはばらばらに住んでいて、車でかなり走らないと会えない状況の中で、私はほぼ独りで学法し、煉功していました。問題にぶつかると、もう他人の後ろに隠れたり処理してもらったりすることもできず、自分で解決していくしかありませんでした。何よりも、学業が大きな負担となって私に圧し掛かり、やり切れないと感じたときもありました。実際、プレッシャーに耐えられずに精神崩壊し、退学せざるを得ない常人の同級生もいました。しかし、着実に修煉し向上していくにつれて、私は師父が私自身よりも私のことを知っておられて、私が乗り越えることのできる関しか按排されないと思うようになりました。

 さらに、人生で遭遇する関や難の解決には近道がなく、後にそれがさらに大きな関にならないよう、一つ一つを着実かつ徹底的に取り組むべきだと気づかされました。たとえば、中国で学校に通っていた頃、私はいい加減な態度で学業に臨み、小賢しいやり方でごまかしていたため、生半可な知識しか持っておらず、解決しなければならない問題はそのままでした。新しい環境に来た今、その蓄積の付けが回ってきました。欠けていた基礎を補わなければならないだけでなく、それを外国語で補わなければならないため、難しさも倍増しました。また、海外での生活がより楽ということもありませんでした。すべては本人の業力や機縁によるもので、どんな環境にも苦難があり、誰にも負うべき責任と切り開く道があるのです。

 そこで、私は焦らず驕らず、時間が足りるかどうかも考えず、黙々と科目を一つずつこなしていきました。地元では同修が少ないため、急ぎの真相を伝えるプロジェクトがあれば、私はプロジェクトを優先しました。どうしても時間が足りない時、私は坐禅を睡眠の代わりにし、疲れてきたら、「其の筋骨を労せしめ、其の心志を苦しめる」[6]、「苦を嘗めるをもって楽とす」[9]などの師父の説法を暗唱しました。一時、昼間は授業が理解できず、夜寝ていると、夢の中で師父が黒板の前に立って講義をして下さる姿が見えました。「それでも分からない」と訴える私に、師父は「それではもう一回説明しようね」と優しく説明して下さいました。徐々に私は成績が良くなり、卒業間近のいくつかの試験ではほぼ満点を取っていました。

 ある試験では、2冊の本の内容が出題範囲となっていましたが、言葉のハンディを背負っている私は、そのうちの1冊を復習しなければ聞き取れませんでした。入念に準備したものの、いざ本番となっても、問題の半分は復習していなかったため、手がかりもない状態でした。「偶然はない。これも一つの関かもしれない」と思った私は、まずできる問題を終わらせて、残り半分の一問一問をじっくり読むことにしました。問いを読んでから、私は友達と会話を交わす感じで心の中で問いとチャットすることにしました。たとえば、「×××はどのような原理?」という問いに対し、私は「×××」を注意深く読みながら、「では、『×××』とはどういう意味なの? 自己紹介してくださる?」と問いかけました。2回ほど問いかけた後、その「×××」の答えが自ずと私の脳裏に現れました。私はその答えに沿い、そこにはどのような原理が含まれているかを考え回答を書き込みました。こうして感じ取ったものを元に思考を広げていく形で、私はすべての問題を解きました。試験が終わって帰宅後、私はすぐに復習していなかった本を取り出して、試験で出た問題をもう一度調べてみると、私の回答はほぼ合っていたことが分かりました。もし私が真面目に復習せず、チャンスを狙ってうまく立ち回ろうと思っていたら、奇跡はなかったでしょう。しかし、できる限りの努力をすれば、師父は私たちの能力の限界による不足の部分を圓容して下さることが分かりました。肝心なのは、自分がまずしっかりと行うことです。

 卒業間際になって、まだ単位が少し足りない私に、学校は「さらに2科目を履修し、卒業を1年後に延期する」との決定を通知しました。時間通りに卒業できないのは少し悔しかったのですが、それでも湧き上がってくる人心を放下するしかありませんでした。ちょうどその頃、神韻芸術団の初公演が突然当地で行われることになり、市場開拓の必要が出てきました。うちの地区では、私ともう1人の同修だけが時間的余裕があって、「これは私が担うべき責任かもしれない」と私は思いました。相談の結果、私よりずっと外国語が上手で、大きなイベントの運営経験もあった同修は、団体や組合への声かけおよび展示会場とのコンタクトを担当し、私は神韻のパンフレットを一軒一軒配布する作業を行うことに決めました。毎日、私たちは早起きして煉功し、学法してから手分けして行動しました。私は前夜に選んだ地域の地図と神韻の資料を詰め込んだバッグを持って、通りすがりの人に声をかけながら一軒一軒回りました。私の考えはシンプルなもので、「神韻が来た」ことを人々に知ってもらうことでした。車もなく、私はその都市のほぼ全域を徒歩で回りました。一部の主流社会の人たちは山の上に住んでいて、お互いの家もかなり離れていますが、師父は縁のある人が交差点に立ち、近所の人たちを呼び出して、私が神韻を紹介するのを聞くように按排して下さいました。道に迷ったとき、笑顔で親切に道を教えてくれる人もいました。

 毎日大きなバッグを背負って歩くことは体力面への負荷が大きく、一時、早朝の坐禅は酢をいれる大きなかめの中に浸っているかのように、耐え難いものでした。しかし、真剣に自身の修煉に臨まなければ、衆生を救うことに悪影響を及ぼし、法が正される時間と資源を浪費してしまうことになるかもしれないと思い、私は歯を食いしばって耐えました。疲れは極限にまで達し、ある日、歩いているうちに急に膝が曲がらなくなりました。その上、帰りの最終バスに間に合わなかったため、歩いて帰るには2時間もかかると思うと、悔しさのあまり、あらゆる悪い考えが出てきました。「このまま歩き続けていくと、不具になるのでは?」という念さえありました。しかしその瞬間、ふと哪吒のことが頭に浮かびました。「哪吒が肉体を捨てた後、彼の師父は金身を作り直してあげた。私が今経験していることも、師父はきっと知っておられる。すべては師父の掌握の下にあり、師父の按排はきっと最良のものなので、まだ何を心配するのか?」と私は思いました。足を擦りながら、私は一歩一歩何とか家に帰りました。その間、悪い考えが浮かんで来る度に私はそれを排除し、一晩ぐっすり寝た後、翌朝はいつも通りに学法と煉功を行い、足が利かない状態もすぐに改善されました。以前、病院のレントゲン写真によれば大腿骨壊死を起こしているとされる同修の修煉体験を読んだことがあります。彼女が何の「痛み」も感じず、普段通りに歩き回ることができたのは、他空間で演化されたより密度の高い身体が彼女の歩行を支えていたからです。さらに、私は物質と精神は同一のものであるという法理をより深く理解できました。人間の表面物質だけに頼って突破しにくい関は、精神面の堅実さを元に、より高い次元に立って、はじめて表面の迷いの制限を突破できるのだと気づきました。

 神韻公演を控え、最後にもう1回パンフレットを配ろうと出かけた私は、ある桃源郷のような渓谷に来て、山を越えた直後に、突然目の前の空に大きな虹がかかっているのを見たのを今でも覚えています。その景色は心に染み渡るほど美しいもので、師父による励ましだと思いました。その後の神韻公演はすべて完売でした。全ては師父の加持によるもので、私たちはただ手足を動かしただけだと私は思いました。

 別の都市に行ったある日、半日ほど時間が空いたので、私は観光地に行き、真相伝えの手伝いをしました。観光バスが次々とやって来て、多くの中国大陸の観光客を連れてきました。彼らは国内のマスコミに憎悪を植えつけられていて、初対面の私に対してさまざまな悪口を言い、私が何かを言う前に私をやっつけようとする人もいました。彼らに笑顔を返しながらも、あまりの悔しさに涙が溢れようとしていました。そして、年中観光地で真相を伝えている同修たちが見せている穏やかさに心の底から敬服の念を抱きました。冷静さを保つようにと自分に言い聞かせつつ、資料を受け取らずに去っていく大勢の観光客の後ろ姿を見ているうちに、私は彼らのために残念に思い始めました。慈悲心が出てきたためなのか、この得難い機会に彼らを目覚めさせなければならないと思った私は、無意識的に「どうか真相を見て下さい。焼身自殺は偽のニュースです」と、遠く離れていく人の群に向かって叫んだのでした。その結果、バスに乗ろうとした人たちは突然凍りついたように立ち止まり、そして一斉に戻って来て私と言葉を交わし始め、列を成して法輪功迫害の資料を受け取りました。まさに師父の以下のお言葉の通りでした。「真相を伝え、法を実証する中で、皆さんが行なっている事が困難に遭ったとき、自分を調整してみて、正念を持って問題を考えれば、かなりの効果を得られるかもしれません」[10]

 (続く

 注:
 [6] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [9] 李洪志師父の経文:『洪吟』「その心志を苦しめる」
 「10] 李洪志師父の経文:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/12/10/434580.html)
 
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