文/海外の大法弟子
【明慧日本2022年1月9日】(前文に続く)
五、情の関を見抜き、自然に任せる
海外で大学院を卒業した後、私は某研究機構で、博士課程の研究を始めました。大学から給料が出るので、今までのように飲食店でアルバイトをする必要がなくなりました。自由時間が増えたことで、結婚への執着が再び出てきました。風雨に晒されながら独りでやってきて、30歳を目前に控え、頼れる人を見つけたい思いが再び芽生えました。この心が生じた途端、長い間連絡していなかった同級生が現れて、あれこれと温もりのある気遣いをしてくれました。気づかないうちに、私は煩わしさを嫌い、すべてをお膳立てしてほしい気持ちが出てきました。それに、相手が同級生なので、一から知り合う手間が省ける上、卒業後はすぐに結婚できるし、彼が勤めている会社で働けるなら、職探しの問題まで解決されると思い、彼と付き合い始めました。しかし、徐々に何かがおかしいと思うようになりました。早く結婚したいという思いが強かったため、私は「我慢」しながらトラブルを無視し続けました。私はできる限り彼に優しく接していましたが、彼は私に対する要求をどんどん膨らませました。終いに彼はかんしゃくを起こし、すぐに博士課程をやめて自分の都市に移り住むことを要求し、私の家族を見下すような発言も始めました。
私は指導教員とプロジェクトに責任を持つことを主張し、途中で諦めることを拒否しました。そこで、彼は別れようと私を脅迫し、私が別れることに同意すると、彼はまた私を宥め始め、その繰り返しでした。現代人の堕落した観念の影響で、他人に対する私の誠心誠意はバカにされて、さらに軽んじられました。食べられず、眠れない辛い時期の後、私は落ち着いて2人の関係を考え直し始めました。「急いで結婚したがる私は、表面的な結婚の形だけに拘っているのだろうか? もちろん、そんなことはない。大法弟子は未来の人類のために、文化や生活方式を切り開く必要もある。それに、結婚は利害関係の計算によるものではなく、互いに尊敬し愛し合い、大切にしていく約束のもとによるものだと、古文書にも記載がある。さらに、人柄が温厚でなく誠実でもない人に一生を預けることはできない。最初から信頼がなく、『賢さ』や『策略』をもって相手に妥協してもらうようでは、2人はどうやって人生を共にしていくことができるだろうか?」。そこで私は、一見「良縁」に見えたこの関係も、執着心を根本から取り除くためのプロセスであり、もう一つの乗り越えるべき関であることにようやく気がつきました。そして、再び恋愛で苦しみを味わうのも、返さなければならないものがあったからかもしれないと思いました。私が理性的になっていくにつれて、その関係も自然に終わりました。
常人社会の普遍的なモラルの低下により、私がすべきでないと考えている多くのことを、周りはすでに当たり前のように行っていて、逆に私のことを「古臭い」と思ってしまうため、私はなかなか良い人に巡り会えませんでした。情や執着心に駆られて、「原則に固執しすぎたせいで良い伴侶を逃してしまうのも惜しいのでは?」と思う時もありました。しかし、よく考えてみると、世の中の婚姻は思うようにいかないものが大半を占めているのは言うまでもなく、相性の良いカップルでもせいぜい数十年しか共にすることができず、その間生老病死もあります。この数十年の喜びのために修煉の機縁を逃してしまえば、後悔してもしきれないでしょう。
しかも、現代社会では、女性にも生計を立てる道があり、たとえ結婚しなくても、囁かれるプレッシャーに耐える必要のない独りでの修煉環境が、依存心を取り除かなければならない私にはきっと適しているのかもしれません。衣食住が充実し、三つのことをする時間がたっぷりある今、心を楽にしてすべてを自然に任せるのが一番いいのかもしれません。たとえ私に運命の出会いがなくても、大法弟子はみな、あらゆる環境や状況の中で未来の修煉形式を切り開いているのです。三つのことの実行に影響を与える要素でない限り、あまり執着しない方がいいと思いました。
また、私は独りで老後を過ごすことへの恐れる心も見つけました。しかし、これもまた、人間の観念で物事を量っていました。結婚すれば、孤独になることはないのでしょうか? 必ずしもそうではありません。これらの感じ方はあくまでも人心、業力、そして機縁によるもので、物事そのものに左右されるのではありません。
そこで、同修を結婚相手にしようと思っている多くの若い同修のことを思いつきました。確かに、修煉者と常人の人となりや考え方には大きなギャップがあり、同修同士であれば意思疎通がよりスムーズになるのは事実です。しかし、一思一念を修めることへの要求の厳格さには変わりがなく、同修であれば楽になることもありません。取り除くべき執着、払うべき犠牲、お互いを大切にしていく姿勢、そして正さなければならない家庭に対する観念など、どれもが一つずつ着実に行っていって初めて良い結果が得られるのです。
子どもが法さえ学んでいれば、わざわざ気にかけて教育する必要はないと考える親がいますが、実はこれは受け持った責任を機に乗じてうまく立ち回ろうとする心理の反映です。修煉の道のりにおいて皆は共に歩む同修ですが、家庭での親としての役割を果たすべき者にも指導の義務と責任があり、決して怠けてはいけないのです。それぞれの役割をしっかり果たすことも、この次元の理を圓容し、切り開いているのです。
六、悪いことも良いことも、最後はみな良いことになる
神が按排されていることは、見た目ほど単純ではないことを法理から理解できました。ここ数年のさまざまな試練を経験してきて、人生には挫折や不幸がつきもので、誰にも嘗めるべき苦痛がありますが、師父のお見守りの中で、すべては最終的に良いことに変わっていくのだと分かりました。重要なのは、その過程で自分が悟り、着実に修め、向上していかなければなりません。
師父はこのようにおっしゃっています。「苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正の法理です」[11]。同時に、心を真に放下すれば、失ったものは必ず別の形で補われます。また、師父は説法の中でこのように教えられています。「ですから、良いことにあっても、悪いことに遭っても、大法さえ修めていれば、全ては良いことです。これは揺るぎのないことです」[5]
思えば、大学受験に失敗して無名の大学に入ったとき、大きなショックを受けました。しかし、博士課程研究のために外国の研究所に入ったとき、まさに自分の出身大学が無名だったからこそ、外国の国防省の審査を通過したのでした。私の出身大学よりずっと有名な大学を卒業した志願者たちのみなが資格を拒否されたことを、私の指導教員は不思議に思っていました。
大学時代に付き合っていた彼と別れた後、私は死にたいほど悲しみましたが、その2年後、彼は20代前半で事故で亡くなりました。人にはそれぞれの運命があります。もし当時、私が大法を諦めて、彼と共に人生を歩むことを選択した場合、2人がいくら幸せであっても精々2年の縁でした。彼の死後、シングルマザーとして私は独りで子育てをしなければならず、さらに苦労していたでしょう。一見、私はその婚姻の縁を失ったようには見えたかもしれませんが、実はそれは束の間の幻想に過ぎず、私のものでなければ繋ぎ止めることもできませんでした。そして、彼のために良い仕事を諦めたせいで自ら招いた苦労も、後に私が海外に出て奮闘しようと決意したきっかけにもなりました。
大学を卒業した年、私には大学院への推薦入学の機会がありましたが、後に賄賂を使った他人に席を奪われて、当時は憤懣やるかたない気持ちでいっぱいでした。しかし、その後、推薦入学者はみな政治審査に合格するために、大法を誹謗中傷する文章を書くことを強いられたことを聞き、落選はある意味、私を守ってくれました。
さらに、留学中の卒業延期が悪いことのように見え、しかも当時の私には収入源がなく、大きな圧力がかかっていました。しかし、時間が余ったことで、私は神韻の宣伝に専念し、衆生を救うことに微力を尽くすことができ、結婚に適さない相手との結婚を避けることができました。もっと驚くことに、延長期間中に私は所在国への帰化申請の資格も得ることができました。このすべてが過ぎ去ったとき、その按排の巧妙さに感嘆せざるを得ませんでした。
私たちは特殊な時代に生まれて、使命を持ってやってきました。全身全霊で法に溶け込み、良い粒子になって、初めて全体の環境を圓容することができます。それは口で言うよりずっと有益なのです。全宇宙の目線が私たちに注がれています。私たちは人類の未来の希望でもあります。私たちの言動は見られており、私たちの存在は法に対する実証なのです。
私は幼い頃に家族と一緒に大法に出会い、大人によくある病気治癒の経験がなく、さらに閉ざされて修煉しているため、功能や天目も経験したことがありませんでした。常人の友人に「なぜ大法を信じるのか?」と聞かれる度に、私の唯一の感想は、「私の心は大法によって正され、考え方も正されることによって人生まで再構築されている」でした。人間は迷いの中で生活し、各種の誘惑に囲まれているため、どうしても怠けてしまうときがあります。しかし、歩んできた道を振り返る度に、気が緩み大法から逸脱してしまったときの自分の心身両面の状態と、正念を持って正しい行いをするときの自分の状態がどういうものだったかがよく分かります。後者の場合、それはもっともミクロの次元の粒子までもきれいに洗浄されているようなものでした。良くないものを捨てる努力を続けて、絶えず大法に同化していけば、私の生命は大法によって形作られていくのです。
引き続き同修の皆さんと共に自分自身をよく修め、より多くの衆生を救っていきたいと思います。
(完)
注:
[5] 李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
[11] 李洪志師父の経文:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」