【明慧日本2022年1月13日】師父こんにちは。同修の皆さん、こんにちは。私の2つの修煉心得を皆さんと交流できることをとても光栄に思います。
私は不公平を正す、義侠心のある女性です。不公平や不義な事に遭遇すると、大声で言葉を発します。
修煉を始める前は、かつて映画を観る為に並んでいる列にダフ屋が割り込もうとしたので、大勢の人が集まっている所で私はダフ屋を罵ったため、一緒にいた友人はいたたまれなくなり、その場から立ち去ったことがあります。
結婚後、幼い子供を連れて野菜市場に行き、露天商を怒鳴りつけたこともあります。なぜなら相手がわざと10元多く取ろうとしたからです! 師父は、「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために自分が不公平だと言います」[1]と仰っています。法輪功を始めた後は、嫉妬心によって義侠心を引き起こす為、少しでもその心を捨てるよう修めました。しかし、この種の気性は瞬間的に爆発してしまうものなので、時に、やはり引き起こし、しかもとても重く、分別がつかなくなっています。
例えば、ある活動の中で私達の内部で事前に協調がよく出来ていなかった為、同修は定量を超えてしまった仕事を外部に依頼しなくてはならなくなりました。その為、私は気が焦りよく考えもしないで、公衆の面前で同修を大声で怒鳴りつけ、現場を気まずい雰囲気にさせてしまいました。
その他に、ある同修は同意を得ずに、私の重要文書を持って行って使用したので、それによって私は百万元の罰金を科せられるかも知れないと思い、私はオフィスの電話を使って、容赦なく口汚くその同修を罵りました。
自分が直面した以上のような突然のトラブルは、自分の感情を制御することがとても難しいのです! 実を言うと、私はかんしゃくを起こしたいわけではありません。しかし、師父が仰る通りにするのは自分にとってとても難しいのです。師父は、「平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何も問題は起こりません」[2]と仰っています。ですから、かつて私が傷つけた人達に対して申し訳ないと思っています。内心から自然に善を表現できる同修がいて、私は同修たちを本当に羨ましく思っています。
例えば、ある時常人が行っている活動の中で、私と同修は楽屋で隣り合わせに座って実演の順番を待っていました。私達は慌ただしく着替えをしている常人を目の前で見ていると、そのうちの一人が踵の高い靴を履いており、かがんで靴紐を縛ることができませんでした。そのような状況を目にしても私はまったく気に掛けませんでした。ところが私の周りにいた同修はすばやく一歩前に出て行き、蹲ってその常人の靴紐を縛ってあげたのです! 私はこのとても小さいことですが善良な振る舞いに何年も心が揺さぶられていて、今でもやはり忘れられません。繰り返し思うのは……前に出て行って靴紐を結んであげた人がどうして自分ではなかったのか、ということです。
さらに別のできごとがありました。ある休日の朝、オフィスには人がいませんでした。私は仕事をしながら、一本の電話を取ると、相手は中国大陸のなまりで話しており、あまり良く聞きとれませんでしたが、大体の内容は、彼は中国から電話してきた同修で、ある人が邪法を使って彼を攻撃してきたと感じたので、新聞部にこの事を報道して欲しいとのこと。私はこの同修の話の筋が通っていないと感じ、頭がはっきりしておらず、いい加減なことを言っていると思い、新聞部はまだ仕事をしていないので、後でまた電話してもらうことにしました。
午後になって、ある同僚(同修)がオフィスに入って来ると、電話がまた鳴りました。同僚が電話に出て話すのが聞こえました。「すみませんが、少しゆっくり話していただけますか? あなたは、中国から電話しているとおっしゃいましたよね?」「同修の方、あなたには師父の守りがありますから、他の人があなたを動じさせることはできません」「新聞部ではこういうニュースを取材に行くことができないことになっています」「あなたは最近学法をされていますか? そのようではいけませんね、お名前はなんとおっしゃいますか? 私はあなたの為に発正念します」このような会話を聞いて、私は恥ずかしくて涙がこぼれそうになりました。同じ出来事でありながら、私の対応はどうしてこの同修とこんなにも差があるのか! 他の人はこんなにも真心や善良な気持ちがあるというのに、私は相手に対して私に面倒をかけないでほしいと思っただけでした。
自分に善の心が足りないと気付いたので、長年三つの事をする以外に善を修める努力をしてきました。しかし却って失敗を恐れて何もしなくなる状況さえありました。消極的になり、あまり個人的な意見を言わなくなりました。小心翼々になり、人と話をして相手を傷つけるのを怖れました。このような状態が昨年の7月まで続きました。ところがある時突然自分が別の人間になったような奇妙な感覚がありました! 心の中で思ったことが、口を通して出てくると、なんとこれまでの自分とは違うのです! 生来の自分の話す声とは違い、突然小さくなり、大声で話すことができなくなりました。また生来の話し方の速さとは違い、突然ゆっくりとしたものとなり、速く話すことができなくなりました。さらに不思議なことは、まるで他の人の考えと立場を感じとることができるようになったかのようでした。
例えば、ある同修は会議の時眠ってしまいました。以前であれば、私はその同修がみんなを軽んじていると感じたはずです。しかし、即座に私の口をついて出たのは、「あなたはとてもお疲れのようですね、だから元気がないのではないですか」言い終わった後、私は自分の言葉に驚いてしまいました。 このような言葉が本当に自分の口から出てきたものだと信じることができませんでした。なんと私は他の人を思いやる話し方ができるようになったのです! しかも、事前に準備しなくてもいいのです。
もう一つの例は、ある同修が私にやらせた仕事が無駄なものになってしまいました。以前であれば、同修のことを「まったく素人はこれだから困る、私は実験台扱いされてしまった」と感じたはずです。しかし、その時同修が恥ずかしい思いをすると感じ取ることができ、慰める言葉がうまく出て来ないので、彼を困らせないように、「もう一度やり直しましょう」と即座に言ってあげました。本当に不思議なことに、私はどのようにすれば他の人がメンツを保てるかが分かったので、進んで相手に助け船を出してあげられるようになりました!
その上、次から次へと現象が現れ、自分が怒りにくくなり、人や物事に対して忍耐しやすくなりました。さらに、誰が正しくて、誰が間違っているということを重視しなくなりました。お互いの理解の下、どのようなやり方をしたらよいかだけを考えるようになりました。みんなで一緒に仕事を効果的にやり、どのようにしたら上手く終わらせられるかを考えるようになりました。家族と話す時も静かに話し、温和な態度になったことで、家族の同修も私の行動の変化を見て、みな驚き、あっけにとられました!
おそらく師父は、弟子の長期にわたる善の心を修めようとする努力を知っておられたのでしょう。それで私の闘争心を取り除いてくださったのだと思います。現在多くの場合、出てくる念は、ほとんどが善であり、前向きな考えであるので、比較的自分のマイナスな考えに気付きやすいのです。私は、師父が弟子を新しく作り変えてくださったことにとても感謝しています!
2、新たな課題に直面し、法の上で悟る
今年同時に2つの映像音楽プロジェクトがあり、私をプロデューサーとして必要としていました。1つは人間関係や仕事、場所、地物が良く分かっている中での環境で、引き続き自分が今まで成熟して開発してきた番組です。もう1つは20年間変わらない修煉環境の職場から離れる必要があり、見知らぬ場所に行って馴染みのない仕事をするのです。
私は同修と交流し、慣れ親しんだ場所で自分が得意とすることをするのは当然のことであるし、変化を望む気持ちがないので、新しい環境に行って新しいプロジェクトをやることは受け入れられないと言いました。しかし同修は、「こんなに大きいことをやるにあたって、他の人があなたを必要としているのは、偶然なはずがありません。しかも、あなたが毎回クリエーターにならなくてはならないというわけではないでしょう!」と言いました。
同修のこの言葉は、私を青天霹靂のごとく私を目覚めさせ、自分の根本上の問題に気づかせてくれました。自分の常人の仕事および大法のプロジェクトを思い返すと、20年以上やってきたのは創作に関するもので、これはもともと私の好きな仕事でもあり特技でした。仕事の中で遭遇した困難でさえも、辛いことがあっても苦労を厭わず進んで行うことで克服しました。なぜならやはり自分の興味があることだからです。注意深く心の中を深く探っていくと、長年の真相伝えの仕事は、やはり自分を満足させる成分が大きく占めていました。自分を実証し、決して百パーセント衆生の為にやっていたというわけではありませんでした。
自分の問題が分かった後、いかにこの2つの選択に向かいあえばいいのでしょうか? どのプロジェクトが比較的私を必要としているのか、さらにどちらが比較的大きな貢献ができるのかを考えました。実は、たとえどの角度から考えても、修煉の現段階であれば、私が選択したことには多少なりとも私(し)の成分が含まれています。
修煉における法を実証する道が交差点の入り口に来た時、どのルートに向かって進んで行くかを選択しなければなりません。私は、実はどのルートであっても人を救う道であることに変わりがないことに気付きました。しかしながら分かれ道の出現は決して偶然なことではありません。私がこの道を歩めば何を得られるかを考える利己的な心理をさらけ出しました。自分に与えられた按排に合わせてやっていけるかどうかの試練です。ですから私には答えがあります。同様に人を救い、同様に法を実証し、私はこの偶然ではないチャンスを引き受け、このまったく不確かな挑戦の道を進むことにしました。
私は真相伝えのこの環境で仕事をして20年になります。この環境は私を育て、自分にとって恩があります。ですから主管に対してどのように向かい合って離職の意思を伝えればよいかわかりませんでした。そのため愚かにも自らが主管と話し合うのではなく、同修に頼んで伝達してもらったのです。自分が職場の倫理に符合しない利己的な行為をしているとは思い到りませんでした。会社組織の間で周囲にうわさが伝わってしまい、主管をも困惑させてしまいました。
本当に私(し)が1つ去れば、また1つやって来ます。私と私は相連なって無限のようです! 師父が仰っていることを思い出しました、「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行い、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変わらないようにするために考えなければならないのです!」[3]と仰っています。
思い起こすと、今回の事で自分の不足を深く感じ、恥ずかしく思います。最終的にはやはり自分の選択に責任を持たなければならないと気付きました。そこで正式に主管と向き合い、事のいきさつを自分の口で子細に説明しました。最後には、主管の理解と許可を得て、同修の歓送会の中で皆の祝福を受けて、20年間仕事をした修煉環境から別れを告げ、未知で真新しい道に向かって大きく足を踏み出します!
次元に限りがあり、個人の悟りですので、不足な所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願い致します。
注:
[1] 李洪志師父著作:『精進要旨』「境界」
[2] 李洪志師父著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父著作:『精進要旨』「佛性無漏」