文/海外の大法弟子
【明慧日本2022年3月16日】私の地元の学法グループでは、ほとんどの修煉者が最近、風邪や咳などの症状を発症しています。他地域の学法グループでも同じような状況があり、多くの人が同時に病気の症状を経験し、中には亡くなる人もいると聞きました。私の地元の学法グループは、このテーマについて何度も理解を共有しました。以下にその一部を紹介します。
一、修煉者の病業の症状のとらえ方
師父はこう説かれました。「法が天体を正すことはすでに終了し、現在法がこの世を正すことに移行しつつあります」[1]
この移行は、まさに大法が三界の悪を祓い、人間界を浄化している姿だと理解しています。長い間、精進せず、三つのことをしっかり行っていなかった修煉者は、その過程で露呈することになるのでしょう。もちろん、特殊でもっと複雑なケースもあります。
法を基準に物事を計れば、勤勉でない修煉者がどのような執着を抱いているかは明らかなはずです。中には、三つのことをやっていても、批判を受けることができない人もいます。また、病気と死に対する恐怖を捨てられない人もいて、その多くは当初、病気を治し健康になることを目的に大法を始めた人たちです。
私はよく、「あちこち調子が悪い」と言うのを耳にします。また「ある食べ物が食べられない」というようなことをよく聞きます。私には、彼らは修煉者の条件を確かめ自分を測っていないように思えました。聞いているほうも、「これはおかしいよ」と指摘することもなく、慣れてしまいました。
彼らの多くは、快適さを求め、苦難に耐えようとせず、業の正常な消去や自分の悪い行いによる現在の現れを悪いものとして扱い、苦しみに抵抗し、自分を不快にする人や物を拒絶する等々、このような行動は、人間的な観念の反映であり、根本的な執着をなくすことはできないのです。
このような問題を解決するにはどうしたらよいでしょうか。
師父はこう説かれました。「次元の向上こそ根本である」[2]
少し前に明慧ネットで「新型コロナウイルスに感染し回復した体験」という記事が掲載されました。記事の著者である修煉者のサミュエル・アルバラド氏は中共ウイルスの症状を発症し、その後回復した例の典型です。韓国のある新しい学習者は、邪悟者(法を邪に悟った人のことを指す)とその信奉者が、相次いで中共ウイルスに感染したことを厳粛に語りました。これらの例は、真に自らを修めることを怠ると、どのような結果になるかを示しています。
もちろん、人間の心は複雑であり、さまざまな執着の現れ方があります。どんなものでも、執着をなくさなければ、いつか何らかの形で現れてきます。中国共産党のウイルスに感染するかもしれないし、他の問題に遭遇するかもしれないのです。新しい宇宙には、誰も執着を持ち込めないのです。執着があるままでは手遅れになる可能性があります。まだ法を正すことは終わっていないのですから、自分を磨くチャンスはあるのです。しかし、早々に旅立たれた学習者にとっては、人を救う上で大きな損失であることに変わりはないでしょう。
二、中共ウイルスの症状がある同修は、対面式のグループ学法に参加できるのか?
1、さまざまな提案
ある人は、中共ウイルスの症状がある人が学法グループに来ると、他人を思いやらず、他人に圧力をかけていると考えます。またある人は、学法グループを深く理解していない人が感染を恐れて学法グループに来なくなるかもしれないと心配し、ある人は、感染者が学法グループに参加して、ウイルスをばらまくかもしれないと、感じています。ある修煉者は、他の修煉者が自分に中共ウイルスを感染させ、病院に入院させたと訴えました。
多くのグループは、パンデミックが始まって以来、対面式のグループ学法を再開しておらず、今でもオンラインで学法を行っています。会場探しに苦労している人もいれば、面と向かって感染するのを恐れて、単にオンラインを好む人もいます。
ここで重要なのは、ウイルスの伝染性や致死性、学習者に何ができるかをベースに議論すべきかどうかということです。ただ、私の知る限り、症状がある人には対面式の学法に参加しないことを推奨しているところが多いようです。
2、なぜ、対面式グループ学法にこだわるのか?
対面式のグループ学法と煉功は、師父が私たちに教えてくださった修煉形式であり、これらは私たちが共に向上することを保証するものであり、時にはそのためにいくつかの困難を克服しなければなりません。これは、師父と大法に対する私たちの信頼を試すものであり、私たちの修煉状況を試すものでもあります。
重要なのは、グループ学法が真の修煉の場となることです。自分の内面を見つめ、自分の心性の不足を発見し、執着を取り除く場となるのです。修煉の中で出てきたものをすべてここで共有し、議論し、法に基づいて啓発し、心性を改善し、全体として向上するのです。
3、常人のやり方に合わせるのも修煉
パンデミックの発生以来、戸締まりや様々なパンデミックの義務化により、私たちの対面での学法に多くの支障をきたしています。同時に、中共ウイルスについて、修煉者は異なる理解をしています。これは私たちが直面しなければならない全体的な修煉の問題であり、私たちが対面式の集団学法を辛抱できるかどうかという大きな試煉になっています。
普通の人間社会の状況に合わせるために、私たちのグループは、中共ウイルスの症状が重い修煉者は、当分の間、集団学法に参加しないように勧めています。これは、私たちが社会で人々を救うために、不必要な誤解や障害を生じさせないためです。しかし、これは、同修が本当にウイルスに感染し、隔離する必要があることに同意することを意味するものではありません。
一方、ウイルスの症状が出ている修煉者がこの問題をどう見るか、学法に来るかどうかは、修煉者自身の自由です。私たちは提案するだけで、彼らに何かを要求したり強制したりすることはできないのです。私達は大法に符合すると同時に、正常な社会状態に適合し、全体の修煉の道を切り開くことができます
ウイルスに関連する問題で修煉者の間に争いがあるとき、私たちは根本的な原因を探し、そこにどのような執着があるのかを調べる必要があります。「一般社会に合わせる」という名目で、症状のある人を来させないのは、自分がウイルスを恐れているのではないか、自分が感染して家族にうつすのを恐れているのではないか、と内に向かって探す必要があるかもしれません。
ウイルスに感染した修煉者が、他の修煉者がウイルスを広めたと責めたとき、そもそもなぜ自分が感染したかを考える必要があるのかもしれません。これは外に向かって探すという典型的な例で、病業の症状が出ているのはすべて同修のせいで、自分は関係ない、同修さえ来なければすべてうまくいく、本当にそうなのでしょうか?
三、ウイルスを合理的に理解する
中共ウイルスに関しては、理解のベースが重要な役割を果たします。知覚レベルにとどまるのは、往々にして誤った「混乱」を招くので、現象を通して本質を見抜き、合理的な面、つまり、法から真に理解する必要があります。
「ウイルス」として扱うと、「病気」であることを認めることになり、人々の共通認識である「病気」の罠にはまることになります。ウイルスが致命的なものになる可能性があるから、私たちは怖がるでしょう。しかし、ウイルスはどこにでもあり、人が逃げられる場所はこの世にないのです。人が恐れるだけでは、中共ウイルスを止めることはできません。
しかし、合理的に、法輪功の観点から理解すれば、中共ウイルスの症状は修煉者にとっては偽りの現象に過ぎないことが分かるでしょう。その症状の目的は業をなくすことであり、大法に対する信仰を試すものなのです。私達は修煉で克服するための試練と捉えれば、内観し、執着を取り除き、法の基準に達するための絶好の機会なのです。その場合、症状はすぐに終わるかもしれません。逆に、法理がよく分からなければ、プロセスが長引き、合格するのが難しくなるか、あるいは不可能になるかもしれないのです。
私の理解では、「ウイルス」には目があります。すべては神の力でコントロールされています。普通の社会では、中国共産党(以下、中共)のウイルスは、もう救われない人を淘汰する作業です。修煉者にとっては、執着をなくす機会です。ウイルスに感染した人は、誰かに感染させられたからではなく、手放したくない執着があるのが普通です。執着と、その執着を養う土壌がなければ、「ウイルス」は自分の空間場で生き残ることはできません。
もしかしたら、ある修煉者が他の修煉者と接した後、自分も同じ症状を発症したのかもしれません。これは前者に対する試練かもしれないのです。
師父はこう説かれました。「真であるか偽であるか、悟りが大事なのです」[3]
その試練とは、自分がどれだけ師と法を理解し、信じているかということです。
師父はまたこう説かれました。「精神と物質は同一のものなのです」[4]
つまり、私達の心の動き次第で、その心こそが試され、培われるのです。もし私たちが中共ウイルスを深刻に受け止めたら、それは大きな山のように私たちを押しつぶし、私たちを恐れさせ、息苦しくさせるでしょう。軽く考えれば、何でもないことであり、一歩で克服できます。
四、症状のある修煉者は、真相を明らかにするために外に出られるのか? 真の慈悲とは何か
私の理解では、私たちの体に症状があっても、それは中共ウイルスではありません。ウイルスには全く感染していないのです。このことは前述したとおりですので、他人に伝染するなどの悪影響もありません。
もし症状が深刻なようであれば、私たちが中共ウイルスに感染していると思われやすく、人を救うことに不利になってしまうでしょう。当分の間、人に近づかないようにするのは理解できます。
しかし、私たちの正念が十分であれば、多少の体の不調は気にならないはずです。体の不調は、真相を明らかにする過程で消えることが多く、衆生を救うことを我慢できるかどうかの試金石になるだけです。苦難があっても、衆生を救う使命を思い、自我を捨てることができれば、それは衆生に対する真の慈悲です。
五、大法弟子全体の状況は、社会全体に影響を及ぼしている
多くの修煉者が同時に病業を消去している場合、それは全体としてなにか問題があるか、あるいは法理に対して明確に理解していないものがあるからかもしれません。例えば、多くの修煉者は予防接種や常人と接することに反対していました。ウイルスに対する深い理解がなく、感染を恐れて、結果的に病業をもたらすことになったのでしょう。
人を救うには、社会と面と向かって接することは避けられません。神韻公演が人命救助に最も威力を発揮することは周知の通りです。しかし、場所によっては検疫措置により、観に来る観客が増えるのを阻んでいます。また、劇場によっては、観客にワクチン接種や検査結果が陰性であることの提示を求めるところもあります。そうすると、観ないという選択をする人も出てきて、地域によってはチケットの売れ行きに大きな影響を及ぼしています。
修煉者の修煉状況を見ると、このような社会的距離を保とうとする現象は、修煉者の中にもあるでしょうか。例えば、症状がある人とは一緒に食事をしない、座らないという同修もいました。同じアパートの住人が、症状のある人に引っ越しを強要することもありました。また、マスクや手袋を何重にもして身を守る人もいました。また、予防接種を受けるくらいなら、大法活動への参加をあきらめるという人もいました。
このような執着は、自分自身に悩みや苦難をもたらすだけでなく、パンデミックを悪化させ、精進で堅実な修煉団体の形成を阻むかもしれないのです。
もし私たち自身が中共ウイルスを乗り越えることができなければ、どうして一般の人々がこの妨害を突破し、本当に救われると期待するでしょうか? 私たちは人々を救うためにここにいるのであって、社会に流されてはいけないのです。私たちの全体的な状態が社会に影響を及ぼすからです。
現在の多くの修煉者はウイルスの症状があり、すでに衆生を救う努力に影響を与えています。もし私たちの中共ウイルスに対する理解が、法や正念に基づいていなければ、一般の人々もウイルスを恐れるようになり、神韻の衆生を救う努力に大規模な影響を与えることになるのです。
六、初心に戻り、100パーセント師と法を信じる
シカゴのある歯科医のBさんの話を紹介したいと思います。Bさんは、少し前に法輪大法を修煉し始め、非常に勤勉でした。フロリダに住む80代の母親が中共ウイルスに感染していると聞いたとき、Bさんは迷わず現地に飛び、同じくウイルスの症状がある妊娠中の友人を連れて行きました。
Bさんは自分の母親と友人に料理や掃除をし、師父の本を読んで聞かせました。また、「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい」(心からの九文字)と言うように教えました。Bさんは、毎日の煉功と学法を真面目にやりました。1週間後、彼女の母親と友人は共に回復しました。その間、彼女は感染しなかったのです。
もし私たちがこの新しい修煉者のように、初志貫徹して修煉し、中共ウイルスを恐れず、心を開き、師と法をしっかりと信じることができれば、私たち修煉者の集団は全体として法の標準に達することができるでしょう。
七、内に向けて探すことは最も有効な方法である
学法グループの同修Aさんが、職場で陽性と判定されました。Aさんはグループの協調人に電話をして、グループでの学法に参加できるかどうかを尋ねました。協調人は、それはAさん次第で、私たちはどちらでもかまわないと言いました。Aさんは、自分が陽性であることを私たちのグループに告げました。ある修煉者は、自分は怖くないと言いました。他の人たちも、Aさんの参加を喜び、Aさんが苦難をみなに明らかにする勇気に感謝すると言い、Aさんは大いに勇気づけられました。
最初の交流の時、Aさんは自分の恐れを発見しました。師父の経文『目覚めよ』を読んで、Aさんは自分の修煉がよくできていないことを感じました。Aさんは否定的な考えが一杯で、ウイルスを恐れていました。それを克服するほどの強さはないと感じていました。症状は治まっていたのに、1週間後にまた陽性反応が出ました。
2回目の交流で、Aさんは自分の憤りを発見しました。Aさんの同僚は、普段から彼を不当に扱っていました。Aさんが2回続けて陽性となったのを見て、彼らは「Aさん、あなたはこんな日が来るとは思ってもみなかったでしょう?」とほくそ笑んでいました。普段、Aさんは彼らを軽蔑していました。その時、彼は「憎悪」が中共の遺伝子の一つであることに気づきました。Aさんは中共ウイルスを引き寄せる「憎悪」という物質を持っており、検査の結果、Aさんは中共ウイルスと関係がある物質場を持っていることが分かりました。Aさんは内に向かって探して見ると、さまざまな執着心が見つかりました。Aさんはそれらを暴露し、取り除くことを決心しました。
3回目の交流では、Aさんは自分の体が完全に回復したことを実感し、結果への執着がなくなりました。この艱難辛苦は、彼が真の修煉をするための警告です。Aさんは、自分にはまだ排除すべき多くの執着があることを悟りました。3週間目には陰性になりました。学法グループの同修たちは、Aさんが検査を突破したこと、自分の執着心を取り除き、そして修煉の面で大きな一歩を踏み出したことをうれしく思いました。私たちは「内に向かって探す」という力を目の当たりにし、法を合理的に理解し、共に向上するこのような機会を与えてくださった師父に感謝しています。
修煉における様々な試験の頻度と難易度はますます高くなっています。ある人は中間試験、ある人はより難しい期末試験、あるいは生死を分ける試験かもしれないのです。すべての試験は重要で、次の機会があるかどうか分からないので、合格しなければならないのです。
古い宇宙から持ち込まれた概念と執着をすべて取り除き、大法に100パーセント同化するために、漏れなく修煉する唯一の方法は、内に向って探すことです。「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』)。これを離れることは、外を見ることであり、「悪魔の道を歩む」ことであり、関門を乗り越えることは不可能です。
八、大法弟子の集団は「浄土」
師父は『カナダ法会での説法』の中に「法輪大法のところだけは絶対きれいな浄土なのです」と説かれました。それはいくつかの側面を含んでいると思います。
1、私たちは大法修煉者であり、師父は私たちが修煉を始めたときに体を浄化し、調整してくださいました。私たちは病気もウイルスも持っていませんし、私達の功力によって細菌やウイルスを排除することができます。病気にならないだけでなく、常に業を消しているので、私たちの身体は清らかです。私たち全体が、「浄土」なのです。
2、私たちの心には法があり、艱難辛苦に遭遇するとき内に向かって探すべきです。私たちが交流をとり、共に話し合い、助け合うとき、私たちは常に心を清め、ますます法の要求に沿うようになるのです。ですから、このような修煉方法は、私たちが共に向上することができる、「浄土」なのです。
3、私たち修煉者の全体としての正念の場は、一緒に法を学び、煉功するときに最も力を発揮します。私たちが一緒にいるとき、正念の場は互いに強化され、私たちの体を調整し、誤った状態を修正することができます。大法弟子の「浄土」は、私たちが向上するために頼りにしている環境です。
今、普通の社会は「人と会ったら、予防する」状態にあり、誰もが中共ウイルスを警戒し、感染することを恐れています。その結果、他の出口を持たずに、自らを閉ざしてしまうのです。古代ローマで黒死病が発生したとき、誰もが危険にさらされました。一度ウイルスに感染すると、治療の時間が全くないまま、地面に倒れて死んでしまいました。将来、人類が大淘汰される時、「人と会ったら、親しく感じる」[5]と理解しています。その時、人はあまり残っておらず、人に出会うと、とても親しく感じるし、安心するのでしょう。
私たち自身の修煉と衆生を救う意志は、法を正す進展に追いつくことができるでしょうか。それは、私たち一人ひとりが考えなければならない問題なのです。
結びの言葉
普通の人間社会でも、修煉集団でも、どんな大きな事件が起きても、それに振り回されることなく、自分を修め、衆生を救うことを固く守ることです。自分をよく修めることは衆生を救う基礎であり、衆生を救うことは我々の使命です。
現在、私達の団体で現れている大規模な病業状態は、私たちの全体的な修煉を向上させるためであり、将来、人々を救う上でより大きな困難に対処するための経験を積むためでもあります。私たちはこの機会をとらえ、法を基礎として理解し、その中でしっかりと修煉しなければなりません。
中共ウイルスの恐怖を取り除き、この障害を突破し、修煉者としてなすべきことを行い、師と法を完全に信じましょう。どんなに深刻な疫病が現れても、どんなに一般社会に大きな変化が起きても、私たちの修煉を揺るがすことはできず、人々を救うという使命をあきらめることはできないのです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『目覚めよ』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「真性を見る」
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「悟」
[4] 李洪志師父の経文:『オーストラリア法会での説法』
[5] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】