文/台湾の大法弟子
【明慧日本2022年4月3日】冬至の前日、姉から電話があり、甘い団子を買って姉の家に持ってきてほしいと頼まれました。私は姉の家に行って、しばらくおしゃべりしていました。すると、姉は2カ月前に起きた私たちの兄弟喧嘩の話を持ち出しました。姉は「もう終わったことだと思っていたけど、まだ心にしこりが残っている」と言うのです。
私は事情を説明して、姉の気持ちをすっきりさせようと思いました。しかしまさか、そのことで私自身の執着が明らかになるとは思ってもいませんでした。
師父はこう説かれました。
「修煉する人 自らの過ちを探し
各種の人心取り去ること多し
大なる関小なる関、落さんと想ふべからず
正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[1]
姉は、長い間埋もれていた私の執着を、鏡のように映し出す役割を担っていたのです。姉は、私の執着をはっきりと見せてくれました。
帰宅した私は元気がなく、自分を奮い立たせることができませんでした。家の子供弟子に「お母さん、機嫌が悪いの?」と聞かれ、私は「ちょっとだけ」と答えました。
夜に法を読んだ後、私はその体験を子供に話しました。すると子供は真剣な調子で「内に向って探して、集中して法を勉強したら? どうしてこんなに長い間恨んでいるの!」と言うのです。私は唖然としました。「そうだ、恨みを長年抱いている人がいるものか」
私が誰にも言ったことのない過去のことが、姉の言葉で、またかき回されたのです。内に向けて探すと、恨みや闘争心、文句を言う心、怒りやすい、指摘されたくないという執着がありました。このような執着を少しずつ見つけていくと、頭上の黒い気が一瞬にして消え、辺りが明るくなり、心が安らぎました。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」