「老い」に対する認識
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年4月19日】今日、同修が「老い」とか「年を取った」について話していました。数日前に私は師父の法理について理解したことを思い出したので、その理解したことをここで話したいと思います。

 師父はこう説かれました。「老、病、死も一種の魔ですが、それも宇宙の特性を守るためにあるものです」 [1]

 ここ数年、私は自分の外見にいつも不満がありました。それは、普通の人より老けて見えているということです。私はこの面で、法を正すことをうまくできていないと、とても心苦しく感じていたのです。「老、病、死」は、普通の人にとっては法則であり、自然なことですが、修煉者にとっては、そのように理解してはいけないのです。

 修煉者である私達は、自分の体は病気ではないことは知っています。私達の体が病業になったらそれを否定するために正念を発しますが、ほとんどの人は「老い」という言葉に、十分な注意を払っていません。しかし、実は私もそうなのです。

 私は「老、病、死も一種の魔ですが、それも宇宙の特性を守るためにあるものです」 [1]と師父が説かれた法を実感しました。老いは病や死と同じで、修煉者にとっては魔です。私たちは、この「老い」が大法弟子に与える妨害と破壊の影響を取り除くために、正念を発するべきです。

 「老い」を認めてはいけないことは、修煉者の誰もが知っていることですが、ほとんどの修煉者はうわべだけで、この問題に気づきますが、本当に「老い」に対しての認識を取り除くことができず、現在「老い」を理由に病気で亡くなる同修が多く、それを理解し、突破する時期に来ているのかもしれません。

 少し浅い悟りですが、適切でない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。また同修がさらに良い理解をするよう願っています。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 【編集者注:この文章は筆者個人の今の認識で、同修と交流して、「比して学び、比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/2/9/438697.html)
 
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