文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年5月8日】私は2012年に法を得た青年大法弟子で、修煉して10年になります。私は今まで、自分が名利に対して淡泊で、名利心というものは自分から遠く離れているとずっと思い込んでいました。しかし、最近のある一連のことがきっかけで、名利心が自分の奥底に深く隠されていることに気づきました。今まで、錯覚が生じていたのは、修煉がそこまで達しておらず、まったく気づくことができなかったからです。
一、名を求める現れ
ある日、勤務先から省の会議に出席するようにと指示されました。この会議は、この分野の同業者の実務者会議であり、省の指導者も出席し、各市の同僚もいて、普段からお互いを知っている人もいます。私は参加する前に、しっかりと事前の準備をしてスピーチの原稿を書きました。実は、自分のこれまでの経験では、人前で話すのが苦手で、普段の会話でもあまりしゃべることはありませんでした。しかし、今回の会議に限っては、長年この分野で仕事をしており、多くの経験も積んできているので、発言する権利もあると思いました。そのため、私には多少なりに何らかの期待感がありました。みんなに認めてもらうために、会議でどのようにスピーチするかをずっと頭の中でしっかりと考えていました。
本番になると、みんな次々と流暢に要領よく話しており、とても上手でした。しかし、スピーチの順番が私になったとき、初めはうまくいっていたのですが、途中で突然ある考えが頭をよぎり、普段の仕事の中でのつらい思いが一斉に湧いてきたのです。一瞬にして声が詰まり、そして喉に何かが詰まったようになり、上手くしゃべれなくなったのです。
私は緊張して、たどたどしく話を続けましたが、全身に大汗をかいて、最後の部分になると自分が何を話しているのかさえ、分からなくなってしまいました。同僚からの異様な視線を感じ、顔が燃えるほど赤くなり、最後の方になると急いで話を終わらせてしまいました。 その瞬間、私は地面の穴に潜り込みたくなり、死にたくなりました。スピーチ後も、自分の最悪な振る舞いの状態からなかなか抜け出せず、会議が終わるまで、他の人が何を話していたか分かりませんでした。自分の「輝いている」イメージが崩れたと思い、どこかに隠れて誰とも二度と会いたくないと思いました。私はとても辛くて、心がえぐられたような感覚でした。
その後の数日間、私はこの感情からなかなか抜け出すことができませんでした。しかし、内に向けて探さなければならず、この向上させる機会を逃すわけにはいかないと気づき、ようやく、この深く隠されている根強い名利心を見つけることができたのでした。辛く感じているのは、その執着心であり、それが曝け出されたからであり、本当の自分ではないのです。
普段は昇進や昇給で人と争うこともなく、名利に対して無頓着なように見えますが、それはただ小さい頃からの性格で、「無頓着」というイメージを維持するためであって、法に則って本当の無頓着ではないことがわかりました。つまり、私の心はまだ常人の中にあり、変わっていなかったのです。
二、根を掘る
自分の人生を振り返ってみました。 幼い頃から自尊心がとても強く、 目が悪くても、誰にも気づかれないようにしました。視力矯正のためにメガネをかけるべきでしたが、私は執拗にメガネをかけませんでした。そのため、中学校では先生が黒板に書いたものを読むことができず、リスニングと独学に頼らざるを得ませんでした。メガネをかけるようになったのは、大学に入ってからです。心の底では、環境が変わり誰も私を知らないからメガネを付けました。このことは、他の人から見れば大したことではないのですが、自分にとっては乗り越え難い障害になってしまいました。
背が高く、運動神経も良いので、学生時代にはスポーツスターになりたいと思っていました。運動場でバスケの名選手になって、一人で試合の情勢を挽回することをよく妄想していました。結局は空想に過ぎませんでした。子供の頃は成績優秀で、いつか成功して、有名な大学に合格すると思っていましたが、そうはいかず、大学受験で失敗の連続でした。まだ他にもありますが、美人のハートを射止めることまで妄想しました。少年時代の頃は常に空想にふけり、知らず知らずのうちに名利心が形成され、自分でも自覚できないほど強烈なものとなっていたのです。
修煉した後、トラブルの中で、あるいは同修と協力する中で、自分を放下できず、自我を堅持することがありましたが、これも名利心と関係していることがわかりました。 今、その根を掘り起こし、完全に除去する時が来たのです。内に向けて探したとき、業力で構成されている自分が死んで、体が軽くなったことを、確かに実感することができました。
三、法の徒は名無し
ある日、「どこに行っても気にすることはなく、ただ法があり 名も利もなく、争う心もなし」[1]という詩を読んだとき、心の震動がありました。ある次元の法理が立体的かつ壮大に、目の前に現れました。自分の人生の基点が法から離れすぎていたことにようやく気づきました。
常人の一生は、常人の社会で名利情を求め、強者になりたいのですが、これは大波に流され、業力に業を重ねる道です。何も求めず、ただ心に法があり、法を用いて自分のすべてを指導することこそが、明るい帰り道なのです。
では、どうやって名利心を取り除くのでしょうか。私の経験では、それは話したり考えたりするだけで実現できるものではありません。まず自分の観念を変えなければならず、苦しみや辛いことを悪いこととみなさず、すべて良いことだと考えるべきです。着実に修煉する中で、一切の良くない常人の心を取り除き、毎回の関や難に自分を厳しく要求し、毎回のトラブルの中で自分の内に向けて探し、一つの考え、一つの念を正すように努力し、徐々に取り除くことができるのです。
この記事を書いている最中にも、時々「名」を求める心が現れますが、出てきた瞬間にそれを掴み、滅し、作用させないようにしました。師父が悟らせてくださる下で、大法の修煉の中で、すべての心を放下することができ、徹底的に自分を正すことができると信じています。
個人の次元の悟りですので、不足があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟四』「行脚」