青年大法弟子「執着を無くし、さらに精進」(一)
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2022年6月7日】私は中国の大法弟子で、10代の頃に法を得て、師父の慈悲なるご加護の下で、今日まで修煉を続けてこられました。この20年間の修煉の中で、いろいろな気づきがありましたので、今回は、最近体験したことについてお話ししたいと思います。

   名利心をなくし、師父と法を信じる

   昨年後半、私が10年以上勤めた会社が諸事情により倒産となり、会社に残ったクライアントは複数の株主に割り当てられました。私も株主の一人です。

   私は新卒からこの会社に勤めており、私の部署は会社の中でも第一線でした。私はまじめに働き、利益の面で他人と争ったり比較したりすることなく、特に福利厚生の配分で多くの不公平に直面しましたが、上司に相談したことはありませんでした。そのため、自分はあまり利益心が強くないと思っていました。しかし、今回の倒産、顧客資源の配分、そして顧客資源で自分の事業の運営など一連の出来事を通じて、自分の名利心があまりにも強いことに気づかされたのです。

   クライアントリソースのそれぞれは収入源であり、クライアントリソースの量と質で収入額が決まるので、配分の過程で発生するすべての状況が私にとっての試練となったのです。当時は、普通の同僚のように喧嘩をすることもなく冷静に向き合えましたが、彼らがやっていること、利益を得るためになりふり構わず、私の配分をも奪い取っていることに不満に思っていました。その時、私が「気にしない」ようにしていたのは実は「我慢」のようなもので、すでに名利心が動かされ、内心穏やかでなく、嫉妬や恨みも生じてしまいました。

   前の会社が解約になった後、お客様の利便性を考え、前の会社からそう遠くない場所に事務所を借りて事業を展開しましたが、前の事務所の同僚2人がなんと私の事務所の隣に事務所を借りていました。同僚のところへ行き交うクライアントに心を動かされ、学法にさえ集中できませんでした。

   そして、この状態はおかしいということにも気づきました。その後、誰かが事務所の前を通るたびに、「視ても見ざれば、迷わず惑わず聴いても聞かざれば其の心乱れ難し」[1]と唱えて徐々に心を落ち着かせ、そのような妨害にも動じなくなったのです。当時、私は名利心を完全に放下できたと思いきや、実は、そうはいかなかったのです。

   師は、「どんな執着心であれ、それを持っているかぎり、さまざまな環境の中でそれを少しずつ削り落とさなければなりません」 [2]「皆さんに教えますが、金銭は修煉者にとって最大の障碍です」 [3]とおっしゃいました。

  一人で経営して数カ月後、1カ月の間に二人のクライアントからそれぞれ連絡が来て、いずれも会社の人員異動で、ビジネスを移転する必要があると言われました。一人目のクライアントから連絡があったときは、比較的落ち着いていましたが、二人目のクライアントは大口のクライアントなので、表面上は落ち着いていても、内心はすでに平静を保っていられず、非常にショックでした。

  私は睡眠の質がよく、寝付けないことは今までほとんどなかったのですが、二人目のクライアントから電話がかかってきた夜は眠れなくなりました。ベッドで寝返りを打ちながら、午前1時過ぎまで寝付けずにいました。そして、そのことを考えないようにするために、起きて煉功をしました。しかし、第二式の功法をやっていたとき、頭の中に、たえずこのことが浮かび上がり、損得勘定に心が引き裂かれる思いがしました。この時、私は心の中で「あなたはまだ修煉者なのか?  20年以上も修煉してきたのに、こんな小さな損得で眠れなくなるなんて、情けなくないのか? 真の修煉者なのか」と自分に問いただしました。

  現実的には、このクライアントは得意先ではありますが、彼と取引しなくなって収入は減るものの、私が事業を維持できなくなることはありません。もし、以前会社が解散登記していなかったら、このクライアントの離脱は私にこれほどの心理的プレッシャーを与えたのでしょうか。そんなことはありません! 今、自分が経営しているからといって、これほど気にし始めたのです。これは強い名利心ではありませんか? もし修行をしたいのなら、もし真の弟子でいたければ、この名利心を放下しなければならない、取り除かなければならない、と何度も何度も心の中で自分に言い聞かせました。こうして心の中の正念を強化し続け、徐々に心を落ち着かせ、煉功を終えてベッドに入ると、すぐに眠りにつくことができました。

 この2人のクライアントが去った翌月、別のクライアントも事情により転勤することになり、その方が手続きに来られた時、心の焦りがなくなり、冷静に対応できました。師父は「逆に、あなたがそれを放下することができれば、貧しくても平常心でいることができ、楽しく生きていくことができます。実は大法を学ぶことで貧しくなることはありません。私からみれば、このようにしたほうが執着しているよりましだと思います」[4]と説かれています。

 私が名利心を放下してから、状況も少し変わりました。 3人のクライアントが離れましたが、新たに数社の小口のクライアントが加わりました。現在、新規顧客からの収入は解約した顧客ほど多くはないのですが、収入の減少をある程度カバーできています。

 しかし、執着心は、何層にも重なり、中にはとても深く隠されているものもあります。それらを認識し、取り除くことも一層一層の手順が必要です。

 最近、私の現在のビジネスに影響を与えそうなニュースを目にして、また心が動かされてしまいました。「この状況では、今すぐにでも新しいビジネス、新しい出口を探すべきだろうか。今後、どうなっていくのだろうか」と考え、 一日中気分が沈み、学法にも集中できませんでした。

 翌朝も気分がすっきりせず、昼の仕事帰りに「なんでまたこんな浮ついた気分になるのだろう? お客さまがいなくなるのが怖い、利益を失うことへの恐れにほかならない。これって利益に対する執着心ではないか? 今後取引がなくなり、仕事を失うのを心配しているのではないか。では、今後この仕事がなくなったとしても、新しい仕事を見つけられないのか? 今は安定しているから、もう変わってほしくないのは、安逸心ではないか?

 考えてみれば、百歩譲って、この仕事がなくなって、短期的に適当な再就職先が見つからなく、あるいは当分仕事を探さなくても、私の生活にさほど影響はないのです。私はなぜこれほど執着しているのでしょうか? やはり、失うことが怖いのでしょう。利益だけでなく、自分の評判が悪くなり、無職と言われることを恐れていたのです。これは名を求める心です。もちろん、私たち修煉者は常人社会において生活するには、常人の状態に従うものでなければなりません。

 一方、読んだニュースが必ずしも自分の仕事に影響を与えるとは限りません。すべてが未知なのです。しかし、私は未知のことに焦りを感じ、損得に振り回され、「転ばぬ先のつえ」だったわけです。

 師父は「修煉者として、今後の人生の道は変わるはずです。わたしの法身が改めて段取りしてあげなければなりません」 [2]と説かれました。

 もし私が本当に師と法を信じているなら、師父が面倒を見て下さり、修煉者の道はすべて師父によって段取りされていることを固く信じるべきです。自分の心や執着心に流されて無理に何かをするのではなく、自然の流れに身を任せればいいのだと思います。

 これらがわかれば、自然と気分も良くなりました。今、私はできるだけこれらことに惑わされず、毎月の収入額にこだわらず、利益のために手段を選ばない常人のようにならないようにしています。ただ流れに身を任せ、良いマインドを保ち、仕事をしっかりこなせると同時に、修煉に多く時間を割いています。

  注:
 [1]李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」
 [2]李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3]李洪志師父の著作:『米国法会での説法』「ニューヨーク法会での説法」
 [4]李洪志師父の著作:『北米第一回法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/11/25/433778.html)
 
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