明慧法会|ビジネスを通じて心を修め人を救う(下)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年10月17日】(前文に続く)

 同業者の中で大法弟子の風格を表す

 私は修煉する前ほとんど同業者と交流せず、心の中で同業者たちとの間に壁があり、大法を修煉した後、私は大法に基づいて自分を浄化し、控えめな態度をとることができるようになりました。師父は私に人を救わせるために、私はまず同業者を救わなければならず、同業者たちは私と大きな縁のある人たちでした。私は率先して同業者たちと接触し、ビジネス上のいくつかのことを討議し、メーカーに客がいる時、私は客の何人かと一緒にレストランに行くことがあり、客たちに法輪功とは何かを伝え三退を勧め、回数を重ねて真心のこもった付きあいがありました。

 酒の席では、同業者はメーカーや客に「こちらは私たちの県の同業者の社長です。人が良く、ビジネスも好調ですが、同じくらい良くないことは、法輪功を学んでいるので酒を飲まないことです」と言うことがありました。この時、私はこの話題を借りて大法の真相を伝え、三退を勧めることができ、条件が備わり物事が自然に順調に運びました。

 ある時、他の県の夫婦が金の取り立てに来たとき、取り立てに行った小さな工場が、つぶれてしまいました。酒の席で夫婦の女性の方が「私たちは数百万の未収金があり、品物は売りましたが、お金は払われておらず、心配しています」と言いました。夫婦は憂鬱な気分でした。私は大法の「失わなければ得られず」の理を伝え、「他の人があなたに払っていないお金はいくらですか? 彼らはあなたに払っていない分だけの徳を与えなければならず、あなたの代わりにその分だけ損害を被ることになり、これは因果応報の天理なので、ただの損になることがありますか? ただ人々は理解できず、修煉者はみなはっきりわかっています」と言いました。妻のほうは感動して「それは本当ですか? 私はずっと心に引っかかっており、あなたにそう言っていただき、本当に心がすっきりし、扉が開かれたようです」と言いました。

 ビジネスマンはみな他の人には言えない、たとえば供給元、損益分岐点、オフラインネットワークなどの秘密があります。同業者も大体はわかりますが、みな自分の考えを持っています。私の工場は小さいですが、営業窓口が多く、市外のいくつかの街にまで広がっています。ある時、同業者が私に「○○地区にあなたは良い顧客がいますか?」と聞きました。私は喜んでその同業者に電話番号を教え、さらにその顧客の信用力を紹介し、心から同業者のためを思い、その同業者の商品がそこで売れることを願いました。

 新しい顧客が仕入れに来た時私に「他にどの会社が売買しているのですか?」と聞くことがあります。一般のビジネスマンはこの話は言いませんが、私は修煉者であり、惜しみなく新しい顧客たちに伝えました。このことに関して、妻は私に「これは話せることなの? これは営業秘密で、みな他の会社に行って仕入れてしまえば、誰が私たちのところに来るの?」と主張し、怒ってぜいぜいと荒い呼吸をし、音を立てて物を放り投げました。私は「あなたの物なら失うことはなく、私たちのビジネスは下降しましたか? そんな考えを弄してどうするのですか?」と言いました。

 またしばらく経ち、同業者の社長が私に幾人かの新しい顧客を紹介し、顧客がやって来て「私は○○店の紹介できました。あなたの家族は素晴らしく、ビジネスが好調だと言っており、あなたの家族の縁は本当にすばらしい(訳注:素敵なご家庭をお持ちですね)」と言いました。私は妻に「どうということはないでしょう? これを『善事をすれば善に報いられる、悪事をすれば悪に報いられる』と言い、納得しましたか?」と言いました。

 師父は「頭に何も思わず、重くみていません。常人の中で修煉しているので、どんな仕事をする人もいます。商売をすればお金を稼ぎますが、何も思わなければ何の差し支えもありません。それを大事にみていなければ、それがあってもなくても同じだと思っていれば、あなたはこの関を乗り越えたことになります」[2]と説かれました。これは私の目標であり、私は一歩一歩その基準に近づいています。

 師父はさらに「個人経営で会社をおこしてどんな商売をするにしても、心を正しく保ち、公平かつ良心的に取引しさえすれば、何ら問題はありません」と説かれました。私は師父の法に基づいて自分を照らし、自分を律し、アクシデントが起きた時は、まさに「公平かつ良心的に取引しさえすれば、何ら問題はありません」というこのお言葉をいつも顧客に話しています。

 以前私は間違いを犯し、黙ってやり直したことがありますが、現在(訳注:2019年11月)間違いを犯したら、私は面と向かって顧客に謝り、補い、他の人に泣きを見させません。他の社長との間にトラブルがある時、私は面と向かって「すみません、この件は私が間違っていました」と言うことができました。このようにするにつれて、同業者が私を尊敬するようになってきたことに気づきました。食事会がある時に私がもし用事があって行かなければ、事後にある人が私に「あの日あなたは何をしに行ったのですか? 私たちはあなたが学んでいる法を教えてくださるのを待っていたのですよ」ということがありました。次女は「お父さんは本当に変わった、以前お父さんが誰かに頭を下げているのを見たことがないけど、今はお父さんは腰を曲げることができるようになったわ」と言いました。私は「大法が私を変えたんだ」と言いました。私は「生命は高尚になればなるほど謙虚になり、無能であればあるほど顔を上に向けて話をする」ということを体験しました。

 ある時、数人の同業者が偶然一緒に集まり、ある同業者が「私のところは温州(訳注:浙江省温州市)に近いのですが、市場がどのようになっているか誰かわかりますか?」と言いました。私が少し話すと、ある個人企業の社長に「あなたはいいことばかり言ってますね、あなたのところの奥さんが一番悪い、偽造品を売って他の人のビジネスの邪魔をし、あなたは外でいい顔をし、それで法を修めているのですか、知らない人がいると思うのですか?」と責められました。みんなが驚愕の視線で私を見ていました。私の顔は熱く、何も言わず、初めて「股くぐり」以上のことを感じました。もし以前なら、私はテーブルをたたいて立ちあがったでしょう。誰が敢えて私にこのようなことをしたでしょうか? みんなが私を見て一言も言わず、ある人は急いでまるく納めようとして「彼は飲みすぎている、彼のようになってはいけません」と言いました。

 夜にレストランに行った時、私の心に不自然な感覚があり、参加するつもりはありませんでした。また「『不自然』とは何の心だろう? メンツや自尊心、自我に動かされ、この心を取り除かなければならない。私は修煉する前、あの個人企業の社長をひそかにこらしめた、今回のことも偶然なことではない。テーブルの上で、私は酒の代わりにお茶を飲み、あの社長に『あなたに乾杯、よろしくお願いいたします』と言った」と思いました。私の心に恨みは少しもありませんでした。みんなは私のこの様子を見て、雰囲気が盛り上がり、ある人が「兄さんは根性がある、みなさん、兄さんに乾杯だ」と提案しました。私を叱責した人(訳注:個人企業の社長)は「お昼過ぎで、悪気はなく、これから私も法を学びます。あなたこそ兄貴です」と言いました。それ以後、その社長は会うと私のことを「兄貴」と呼びました。以前真相を伝えると彼はいつも首を振りましたが、今(訳注:2019年11月)彼は三退しました。

 私は「自分が優しい気持ちで話し人に接すれば、大法の輝きを発し、周りの人に影響を与えることができる」と認識しました。ある日、よく仕入れに来るある顧客が私に「あなたの心は本当に素晴らしい、顔がやさしく、まるでウィーチャットの高僧のようです」と言いました。その顧客は携帯電話を取り出してウィーチャットを開き、高僧の写真を指差しながら「似てるでしょう?」と言いました。私はその「高僧」を見ながら、笑顔の背後に善でないある種のものを感じましたが、私はコメントしませんでした。目の前にいるその顧客の心の底にあるその佛性を大切にしなければならず、大法弟子は人を救うだけで人を壊すことはできません。実際私は「誰が高僧なのか? 大法弟子一人一人がみな高僧であり、世の中の万事を見抜くことができ、天象を理解し、因縁関係を理解し、大学生が小学生を見るかのように、一目で見抜く、これがやはり高僧ではないだろうか?」と思いました。

 経営理念の体得

 私は「正念が強く、道を正しく歩いている時、ビジネスは順調で、そうでない時はトラブルが起こる」ことを体験しました。大法弟子はビジネスを行なうのに参考はなく、すべて大法の指導と心性の状態によって前に進み、つらく疲れる複雑なビジネスの中で、絶えず自分を修めました。

 ある友人がいつも私に「あなたのビジネスがこんなによいのは、きっと何か秘訣があるのでしょう?」と聞きました。その友人は秘訣が何か知りたがっていました。私は「秘訣なんてどこにありますか? あなたはすべて見てきたではありませんか?」と言いました。実際、私は経営管理論や経営成功学がわからず、ビジネスを行なうのも変わったアイデアはなく、ただ流れに乗って毎日接し、財産があるべきであれば財産が来るし、なければほしいと思わず、「どれだけ金を稼ぐか」について気にしていませんでした。大法弟子が行なうべき三つのことが本筋であり、ビジネスは手の中にある凧のように、根は私のところにありますが、凧は流れに乗って漂うのです。

 ある社長が私に「あなたは従業員によくしており、私も従業員によくしています。あなたは福利厚生を支給し、私も福利厚生を支給しますが、私が目の前にいない時、従業員はごまかし、仕事をしません。私が見るにはあなたのところの従業員は管理する必要がなく、ロバのように働き、あなたにはコツがあるに違いないですよね?」と聞きました。私は笑いながら「いつかあなたが大法を修煉すればわかり、善はすべてに影響を与えることができます」と言いました。常人が誰かに対してよい心理を抱くのは求める心であり、口では言わず、心の中で期待しています。修煉者が誰かに対してよくするのは真心であり、それが境地であり、この点を常人はまだ見抜くことができません。

 従業員とミーティングをする時、私は大法弟子のウェブサイト上の古人が徳を重んじ善を行なった物語をいくつか話すことがあり、たとえば『王善人(訳注:清朝末期に義学(無償の私学)を教えた人)の物語』、『さお秤を量る物語(訳注:重さに裏工作をせず、公正な取引をする物語)』、『お金を渡して母娘を救い寿命を延ばし福に報われる』、『悪徳商人が人をだまして報いを受けた物語』……でした。これらは神伝文化の宝であり、天理の原則を明らかにし、善の心を目ざめさせ、人が悪事をしないように警告しています。

 社長として、レジの位置はとても重要です。しかし私のレジは誰でもそこに座ることができ、時には同修が来たり、あるいは用事があって街に行くとき、私は立ち上がって出かけ、適当に従業員を1人配置してそこに座らせお金を受け取らせ、私は警戒せず、またたく間に消え去るもの(訳注:お金)を重んじませんでした。従業員の気分はさまざまで、そこに座ってお金を受け取ることは一種の行ないに対する報酬であり、厳格に自制することでもありました。

 誰かの従業員の家で何かあれば、たとえば結婚式や葬式など、私はその場に行ってフォローすることがあり、真相を伝える良い機会でもありました。従業員の誰かが中古住宅を買うのであれば、私は従業員たちと一緒に家を探しに行きました。お金が足りない時、私は従業員たちに10万くらい貸しました。ある従業員は14万借りました。知っている人は誰もがみな「現在両親に金を貸すことさえ躊躇するのに、あなたは本当にいい人だ」と言いました。ある従業員に10万貸したとき、その従業員は涙ながらに「私の母も私にそんなにお金を貸してくれず、これでもししっかり働かなければ、私の母はきっと私を叱るでしょう」と言いました。感動と感謝は人のやさしさの表れであり、私は做して求めず、心の中では何事も起きていないかのような感じでした。人を助けるたびに、私の心はいつも喜びに満ち、ある種の喜びがあり、私はこれを行なうべきだと感じました。

 最もにぎやかなのは毎年端午の節句、中秋節、旧正月であり、私は従業員に米、油、魚などの福利厚生を支給する習慣があり、一年に7回支給しました。それを見た人は羨ましがって、「あなたのような社長がいて従業員は本当に幸運です、死ぬほど疲れても文句を言わないでしょう」と言いました。ある時退社の時、突然大雨が降り、ある従業員2人がレインコートを持っておらず、私は「2人とも待っててください」と言いました。私はスーパーに行ってレインコートを2着買って従業員2人にあげました。従業員は「社長は本当に思慮深く、もし社長が変わったら誰がこんなことを気にするでしょうか?」と言いました。

 正月休みの間に、私は従業員に「新年のあいさつをする時は必ず家族と親せきに真・善・忍はすばらしい、法輪大法はすばらしいと伝え、出勤した後に私は必ずチェックします」と話しました。これは間接的に大法を広めることで、大法の情報と福音を放っており、人から人に伝える効果はさらに良くなりました。正月の間に、ある従業員が家で食事をするように私を誘い、私はその場を借りて従業員の家族に大法の真相を伝え三退を勧め、店員(訳注:家での食事に誘った従業員)の両親は「子供が帰ってくるといつもあなたの気立てがやさしいと話し、このことを知ることができて満足しました」と言いました。他の人が大法の真相を受け入れた時、私は最高に喜びました。

 二十年来私は一粒の薬も飲んだことがなく、体と精神の状態はとてもよく、穏やかで、接触する人はみな好感を持ちました。ある人が私に「あなたという人は気立てがよく、家では模範的な旦那さんに違いないでしょうね」と聞きました。私は「もともと私は気性が荒く、法輪功を学んでよくなりました」と言いました。この話題を通して、私は大法とは何かを伝えました。

 私は従業員を簡単には叱責せず、従業員に対して従順であっても容認せず、批判しても人を傷つけたりせず、従業員に対して安心しても放任せず、褒賞を与えて管理しました。新しい店員が入った時、たとえ3日間働いて適応できず出て行ったとしても、私は給料を払いました。これは他の店ではないことでした。

 ある時、夜に大雨が降り、2時過ぎ、ある店員が私に「雨がこんなに強く、倉庫が雨漏りしていないか見に行かないのですか?」と電話してきました。その店員はかつて両親が手に負えないひねくれ者で、深夜に私の倉庫のことを考えることができ、私はうれしく感じました。もし大法を修煉していなければ、その店員にやさしく接することなく、その店員は私のことを考えることができたでしょうか? このことに関して、私は会議で何度もその店員をほめ、さらに褒賞を出しました。

 私は「経営理念に奥義はなく、どのような性格の人にどのような管理方法があるのか、どのような分野の人にどのようなことをさせるのか、人の善の心を啓発することができ、人を激励し心から与え、この点に達することができれば、それは成功の経営理念だ」と思います。

 心から他の人のことを思う

 ビジネス上でいつも少額の決算があり、商品のピックアップが少なく、物事が遅くなり、妻は時には顔を震わせ、かんしゃくを破裂させました。私は妻に「そんな風にしないでください、私たちも個人企業から始めました」と説得しました。このような客が来た時、私は率先して商品選びを助けることがあり、同時に客たちに真相を伝え三退を勧めました。私の眼の中では、大企業も中小企業もみな同じで、今日は中小企業でも明日も中小企業とは限らず、今日は大企業でも明日も大企業とは限りませんでした。

 遠方から商品を購入しに来る人は、時には街に出て用事を済ませなければならず、忙しく車を走らせ、慌てふためき、時間も非常に限られていました。私は自転車を買って準備しており、私は「これは公用車で、みんないつでもご利用いただけます。ポケットに十分なお金がない時は、いつでも声をかけてください」と言いました。

 小さなことですが、顧客に大きな便利を与えました。ある顧客は注文後に急いで街に出て用事を済ませなければならず、少しだけお金を出してテーブルに置き「商品代金はこの中からお願いします、私はもう街に出て用事を済ませに行きます」と言いました。このような信頼と委託に、私は大法の威徳を感じ、真・善・忍を信仰する人と向き合い、顧客たちは安心しました。修煉前私はすばしこくて抜け目がなく、誰が私に対して安心できたでしょうか?

 新しく開店したある個人企業が仕入れに来て、目先の利益を図り、価格の安い商品だけを選びましたが、価格の安い商品は一般的にみな売れ行きの悪い商品か処分品でした。修煉前は、新しい客が来た時、私は売れ行きの悪い商品をもっぱら勧め、汚い手口が多かったのです。大法を修煉した後、私はその逆になり、新規の客が売れ行きの悪い商品を手に取った時、私は「これは価格が安いですが、売れません」と気づかせてあげました。新規の客たちは感激のまなざしで私を見ていました。

 ある冬の夕方、店を閉めようとした時、街はずれの女性が仕入れに来ました。その女性は20歳代で、日焼けした顔で、苦労している様子でした。その女性は臆病そうに「私は店を開きたいので、仕入れたいのですが、選んでいただけないでしょうか?」と言いました。私の妻は「明日来てください、もう終わりですから」と言いながら物を片付けドアを閉めようとしました。その女性は「私は切符を予約しており、明日の朝のバスなんです」と言いました。その女性は私をじっと見ていました。私は「いいですよ、商品を選んでください」と言いました。私は妻を先に家に帰らせ、それからその女性が一つ一つ選ぶのを手伝いました。その女性は売れ行きの悪い商品をいくつか選びました。私は「これを売るのは難しく、買って帰っても在庫になりますよ」と言いました。その女性は少し驚いた眼をして「あなたはどうしてそんなにいい方なんですか?」と言いました。私は嬉しくなりました。その女性が商品を選ぶとき、私は法輪大法とは何かを伝えると、その女性は「あなたがこんなにいい方なので、私はあなたのおっしゃることを信じます」と言いました。

 梱包を終えた後、私は「どうやって帰るのですか?」と聞きました。もう空は暗く、街灯がともり始め、通行人も少なくなっていました。その女性は「担いでバスターミナルまで行きます」と言いました。私はその女性が薄着なのを見て、バスターミナルは遠く、道は不慣れで、私は心の中で少し消極的でしたが、すぐにそれが私心であることに気づき、「私があなたを送っていきましょう」と言いました。私は自転車に商品を乗せ、その女性とバスターミナルまで歩きしっかりと保管しました。私は「食事をして、少し休んでください」と言いました。私は向きを変えて帰ろうと思いました。その女性は「私のお金はすべて仕入れに使いました。食べずに、少し寝て明日の朝バスに乗って家に帰ります」と言いました。私は少し驚き、また少し切なくなりました。俗世間の衆生は、一生懸命に苦労しており、大法を修煉せずにまだ彼岸(訳注:煩悩を解脱した境地)があるでしょうか? 私は「行きましょう、私たちは一緒にファーストフードを食べに行きましょう」と言いました。その女性は何度言っても行こうとしませんでした。私は「私も食べておらず、食事に付き合ってもらえませんか」と言いました。食事が終わって別れる時、その女性は「私は生まれてから、私の母だけが素晴らしいと感じ、今回出かけて、あなたのような親切な人に出会えるとは思いませんでした」と言いました。私は「法輪功を学んでいる人はみなこのようであり、これから出かけて難に遭った時、法輪功を修煉している人を探せば、みなあなたを助けてくれるでしょう」と言いました。

 思いもしなかったことに、この一見謙虚そうな女性が、数年後大社長になり、ジジネスが急成長し、1年で私の商品を数十万元販売することができました。その女性に会うたびにいつも、その女性はいつもその時の話をして「あなたのところの商品がある限り、私は他の店にはいかず、あなたのところの商品を仕入れます」と言いました。さらに「いつかひまになったら私のところに来てください。私があなたにごちそうします」と言いました。

 小さな事柄の中に、修煉者の境地を反映させることができます。私はその女性を少し手伝っただけで、その女性は信仰を持つ人の善と大法の輝きを見て、その女性は大法を信じることができました。

 県庁所在地の開発区では、ある社長のビジネスが廃業しました。その社長は私に賃貸料を借りてまだ5000元返しておらず、周りの人に借りた金額も少なくなく、みんな「社長に返済させろ」と騒ぎ出しました。その社長は百万以上借りていると聞きました。彼は返済を強いられてご飯がのどを通らず、やつれていました。私は「私に借りた5000元は要りませんので、あなたはまず他の人にお金を返してください」と言いました。彼はとても感動して「本当にありがとうございます! ありがとうございます! ご親切にしていただいてありがとうございます!」と言いました。私は「私がもし法輪功を修煉していなければ、このお金は絶対必要で、現在お金を重く見ない人がいるでしょうか? 大法はすばらしいということを覚えればあなたは福報を得られるでしょう」と言いました。彼は「覚えます、必ず覚えます」と言いました。

 旧正月の時、その社長は部下にお土産のお茶を送らせました。お茶を送ってきた人は「私たちの社長は、あなたは最も素晴らしい人だと言っていました」と言いました。私は「それは私が大法を修煉しているからです」と言いました。続いて、私はお茶を送ってきた人に真相を伝え三退を勧めると、お茶を送ってきた人は喜んで「ありがとうございます! ありがとうございます!」と言いました。

 お金に対して違和感を感じる

 あっという間に長女が結婚し、娘婿は管理の仕方を知っており、私はビジネスがゴールまで行ったように感じ、長く生きてきて、心が少し寂しい感じがしました。しかし私ははっきりわかっています。私はお金を稼ぐためにこの世に来たのではなく、大法のために来たのであり、衆生のために来たのだとわかっていました。誰かが私と入れ替われば、私は邪魔にならないようにし、ためらうことなく数千万の家産を子供に渡しました。

 最初に退いた時、心の中は空っぽで寂しく、メーカー、客、運送会社は私に会わなくなり、電話が少なくなり、一つ一つが糸の切れた凧のように目の前を漂流していき、私は「世間では何が一体あなたなのか? 少しずつ蓄えた多くの財産はあなたの物か? いつも使うのに十分であればそれでいいと言っているが、心の中ではいつももう少し多く稼ぎ、もう少し貯めたいと思っているのではないか? 最後に誰に渡すのか? 子供に渡すということは、実際見ず知らずの人にあげるのに等しく、なぜなら誰にあげてもあなたと何の関係もないからだ」ということをさらに深く認識しました。

 師父は「答えは衆生を迷わせた 間違って、名利が目的とされ みな必死に頑張って、蓄えを増やしている 栄華富貴を持っていくことはできない 一生あくせくと働き、誰のために奮闘するのか」[3]と説かれました。もし大法を修煉していなければ、私のような金の穴に首を突っ込んでいる人間はそんなにすぐに家財を子供に渡すはずもなく、ましてや娘婿はやはり他人であり、息を引き取らない限り手放さなかったでしょう。大法が私を救ってくださり、大法の中で修煉して表した境地が私を救いました。ある時私が鏡の前に立つと、白髪が多くなり、猫背になり、顔は少し荒れており、もし大法を修煉していなければ、世の中の苦海の中でまだ彼岸(訳注:煩悩を解脱した境地)があるのでしょうか?

 大法の中で修煉して二十数年、この「ラクダ」である私がついに「針の穴」を通りました(訳注:富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい)。薬がなくては生きていけず心が汚れていたあの頃の私が、今日(訳注:2019年11月)まで歩み、本当に心を入れ替えて真人間に生まれ変わり、これは大法の威徳であり、師父の威徳でした。20年間を私は無駄にせず、毎日、毎月、毎年みな充実して三つのことを行ないながら、ビジネスでまた忙しく、発正念の時間になれば、私はやっている仕事を手放すことができ、正念を発しに行きました。たまに実家に帰ると、私は大法の福音を一族の人や親せき全員に伝えることができました。

 修煉を始める前、私の失業手当は100元ちょっとで、現在(訳注:2019年11月)社会保険は3000元以上支出されますが、まるでまた以前に戻ってしまったかのようです。私の生活は質素で、食べるものや着るものは簡単で、稼いだお金は使いきれず、人生の半分はビジネスをしてきて、私はお金に対して深い思い入れがありました。

 長い時間が経ち、私はお金に対してなじみがないように感じ、まるでお金と私は関係がないかのようで、私は「私は人生の大半でお金を稼ぎ、修煉する前は一生懸命稼ぎ、修煉を始めた後は稼ぐことに淡白で、現在(訳注:2019年11月)なぜお金に対して違和感を感じるのだろうか?」と不思議に思いました。世の中の人がお金を稼ぐ意気込みと、あわただしくしているのを見て、私は「彼らは何を忙しくしているのだろうか?」と思いました。もしかしたら私は乗り越え、心がきれいになったのかもしれませんでした。妻は「私たちにはまだいくつかの不動産があり、賃貸料を稼ぎながら、もう少しお金をためましょう」と話しました。私は「どれだけ稼いでもみな数字であり、過去から現在まで、貧乏人も金持ちもみな数字を稼いでおり、精神的な享受を得て、最後に数字を誰にあげるのですか? みな捨て、子供のためだと言い、誰が子供なのですか?」と言いました。師父は「世に来た時、身体だけであり この世を離れた時、肉体さえ脱ぎ捨てる」[4]と説かれました。

 あとがき

 20年間の修煉体験はあまりにも多く、本当に1冊の本を書くには十分なほどです。20年間、私には関をしっかり乗り越えた時の多くの安らぎがあり、0点を付けられたことで心が折れそうになったことがあり、自分の向上が遅いことを心配したことがありました。日差しがあろうと風雨であろうと、三つのことを私はずっと堅持して持続してきました。一歩踏み出すごとに、大法は私を浄化してくださり、師父が私を造り出してくださり、私は悪くなってしまった人間性から抜け出すことができ、ためらうことなく今日(訳注:2019年11月)まで歩み、すべてはみな師父と大法のおかげでした!

 20年間という時間は長いようで短く、振り返って見ると話しきれないほどあります。もともと最初は私はこの原稿を書くつもりはなく、自分の修煉が劣っていると感じましたが、同修が私を励まし、師父が私を助けてくださり、原稿募集がもうすぐ終わろうとする時この体験を書き上げ、師父に答案を提出し、師父と大法の威徳を実証するために書きました。

 改めて慈悲で偉大なる師父に感謝申し上げます!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『米国法会での説法』「ニューヨーク法会での説法」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟五』「迷いを解く」
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟五』「人の世を故郷と見なさないで」

 (明慧ネット第16回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 (完)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/4/395397.html)
 
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