【クロアチア明慧】明慧の仕事に携わることは何を意味しているのか
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文/ 海外の大法弟子

 【明慧日本2022年10月1日】私たちの「明慧ネット」が設立されて以来、私にとって明慧の仕事に携わることは、心性を修煉し、視野を広げ、絶えず真相をはっきりと伝える大切な場となっています。明慧に参加した当初は、師父がこのプロジェクトの仕事に対してどれほど苦心に按排されているのか理解できませんでした。そして、大法弟子として、私たちの生活のあらゆることも修煉のためであり、師父と交わした誓約を果たすために念入りに按排されていることにようやく気付きました。

 最近開催されたヨーロッパ・ポーランド法会は、現地の同修の協調を強める貴重な機会であり、天国楽団の初登場をはじめ、法会までの数日間の活動は、現地の人々に真相を伝える絶好のチャンスでもありました。私は他国に住んでいますが、全身全霊と熱意をもっていくつかの活動を段取りして参加しました。これは、自分の誓約の一つであると感じたので、距離が遠いという観念に阻まれることなく、簡単に克服できました。

 すべての活動が終わった後、私の見ている限りでは、すべての真相を伝える活動も法会自体も、みんな大成功でした。しかし、明慧に関することは、あまり成功したとは言えませんが、修煉にとって非常に良い機会であったと感じました。

 ここでは、いくつかの例をご紹介したいと思います。

 明慧報道文章の投稿と内に向けて探す良い機会

 法会準備の過程では、私は集中力を発揮し、分担が必要なときは細かく気を配りました。手伝ってほしい時には同修に声をかけ、決して無理強いはしません。全体の流れはとても自然で、多くの同修が協力してくれました。しかし、明慧の報道文章を書くことに関しては、それほど詳しく計画しませんでした。要するに、チームメンバーとのコミュニケーションで、一人のメンバーに写真の撮影や活動および法会の詳細を記録し、中国語と英語の明慧に投稿するようにと任せました。その後、活動の詳細についていろいろとやり取りを続け、彼が活動と法会の写真や記事を担当するのだろうと無意識に思っていました。私たちのチームはとても小さいので、現場で取材する専任者もおらず、彼にとっても初めての体験のようです。

 法会の翌日、彼は様々な仕事があり、これからの数日間は多忙のため明慧の報道を書くことができないと教えてくれました。彼はまた、法会で発表した同修の体験をまとめて記事として明慧に送り、現地の同修が撮影した高画質の写真を使ってはどうかと提案しました。メッセージを読んだ後、私は驚き、怒りと恨みがこみ上げてきました。忙しいのはわかるし、それを責める気もなかったのですが、「なんでこんなに無責任なのか」と憤慨してしまい、なぜ、すべての活動が終わった翌日に、報道を書かないと言ったのでしょうか? 私はがっかりしました。

 その後のチーム定例会議でも、彼は「報道文章は必ずしも私たちのチームメンバーが書く必要はなく、法会で発表された同修の体験をまとめてもいい」という内容を繰り返しました。それを聞いたとき、話は間違っていないが、言い訳かもしれないと思いました。「もちろん、明慧チームがない国では、このような形で報道するかもしれないが、私たちには明慧チームがあるのだから、私たちにこの目の前のことさえ担当する能力なければ、私たちのチームの存在意義は何なのだろうか? 大法活動の取材で大きな役割を果たせないのなら、なぜ明慧チームが必要なのか?」と自分は思いました。

 会議では、私はやや冷たい口調で話し、もっと議論したい気持ちもありましたが、同時に、この中に必ず自分の修煉する要素があると知っているので、できる限り自分を抑えました。その後、私はこの事の経緯を振り返って、内に向けて探しました。なぜ、報道文章を彼に頼んだのでしょうか? 彼は私たちの明慧チームの結成に大きな役割を果たした古い学習者であり、他国に住んでいるからです。そのため、活動の期間中、彼は現地の同修ほど忙しくないはずで、写真を撮ることや、文章を書くことができるだろうと思いました。表面上、そして私の理解では、彼は文章を書くのに最適な人物です。自分の考え方には問題は見当たらなかったので、引き続き内に向けて探しました。

 私はすぐに、彼にこの責任を「配分した」だけで、詳しく話していないことに気づきました。法会の準備では、私は問題を解決するために同修とのコミュニケーションが双方向になり、新しい学習者を励ますことに気配っていました。この明慧同修を相手にするとき、「彼は古い学習者であり、この仕事を完成するのは当たり前だ」という常人の観念が圧倒的でした。そのほか、初めて天国楽団を招いたことと全国の初めての法会でもあるので、この重要なイベントの明慧報道に対して、自分はもっと責任を持って行うべきではないでしょうか。 この仕事に対してどのように行うか、私たちの考えは一致しているかどうか、彼は活動の報道と法会の報道を同時にこなせるかどうかを、私はしっかり確認すべきでした。何か手伝って欲しいことはないか、仕事を完成させるために彼はどう思っているのか、写真や取材、執筆などを分担したほうがいいのか、といったことを彼に聞くべきでした。私自身は、取材の準備について責任を果たしていないことに気づきました。また、この同修は古い学習者だとばかり思い込んでいて、彼を非常に高い位置につけてしまい、実際にこのすべてができるかどうかの確認もしませんでした。私は想像で彼ができると思っていただけです。これらを悟った自分は、それまでの彼に対する恨み、よく言えば、この件に対する恨みがすべて晴れて消えました。しかし、まだ一つ問題が残っており、即ち、中国語と英語の明慧報道はどうするか、ということです。

 文章の質と修煉

 もう一人の明慧メンバーが、この二つの文章の執筆を引き受けてくれました。まず、彼は活動に関する報道を書いて、私にチェックするために送ってくれました。私はそれを少し修正して中国語明慧に送り、現地の学習者が撮った写真を添付しました。このカメラマンは明慧メンバーではありません。送信する前に、私は「この文章はかなり初級的で、詳しい内容も欠けており、人を救えるほど真の力が備わっていないと思います」と、彼に言ったのです。そして、彼は「ときには、写真は文字よりも説得力があります」と返信してくれました。活動が終わって数日も経ったし、遅れ過ぎないように中国語明慧に送りました。記事はすぐに掲載されたのですが、数日後、中国人の学習者からクロアチアでの活動についての記事を訂正する必要があるとのメッセージを受けました。明慧の仕事は守秘義務やセキュリティがあるので、相手が明慧メンバーであるかどうかは聞いていません。自分も明慧のプロジェクトに携わっていることを言いたくないからです。しかし、最終的にはすべてがうまく伝わりました。

 相手の同修は、記事の中に天国楽団人数が間違っていると指摘しました。私は驚き、記事に事実と異なっている点はないと強調して異議を唱えました。相手の同修は冷静に、記事の内容、特に天国楽団の人数に関する部分を再確認するようにと教えてくれました。また同修の話によると、記事のトップの写真は、半分が太陽の明るい所にあり半分が影になっています。しかも、地元の人たちへの取材内容が記事には詳しく書いていないとのことです。

 私は指名され批判されたような気がして、記事の内容に不備があることも分かっていたので、とても気まずくなりました。そのとき、次のような考えが浮かんできました。「記事を書くべき本人が書いていたら、すべてがうまくいっていたかもしれない。記事は別の人間が書いたもので、私たちが急いで完成したものだから、今すぐに挽回する方法を考えなければならない」。そして、中国語明慧に対しても、「中国語明慧の人たちは厳しすぎる。中国の文体は、西洋の文体とは全く異なっているのだ。どうして私たちの間違いにばかり見つけて、自分たちの間違いに気づかないのだろう」といろいろと考えました。心の中でみんなと論争している自分がいました。

 私はすべてのマイナス思考を抑え、物事をプラス方向に転じるようにしました。修煉者は何事も前向きにとらえ、内に向けて探すことを通して、そこから学び自分を向上させるべきだからです。落ち着くまで時間がかかりましたが、やり遂げました。発正念をすることも役立ちました。そこで、掲載されている記事を読んでみると、確かに天国楽団の人数は、読者に誤解される可能性があります。 中国語に翻訳する際にミスがあったと思いますが、私たちの原文にも少し曖昧なところがあって、確かに修正する必要があります。問題を指摘した同修は正しかったと分かりました。私は自分のために弁解し、彼らが間違えていると私が主張しても、同修がずっと冷静さを保ち記事の修正を促してくれたことに感謝しました。同修はいかなる状況においても常に「善」であり続けることの意味を教えてくれました。

 しばらくしてFacebookを開くと、この活動に関する記事が明慧Facebookページに掲載されていたのですが、タイトルの誤記がありました。私は「これは本当に不思議だ! こんな小さな記事でも問題だらけだ!」と思いました。記事のタイトルで、「天国」の「Tian国」が間違って「Tain国」になっていました。本当に困りました。さらに詳しく確認したところ、私たちの記事の中に「ia」を「ai」と誤記していたことが判明しました。「Ai」はまさに英語の「I」の発音です。 なるほど、I(私)は、自我でした。

 この「私」と関連する多くのことが、明慧報道文章の全過程に反映されていることに気づいたのです。それは、仕事を段取りする中で自分はもっと多く分担すべきことと、記事の出来が悪いために自分の名声に執着してしまったことが分かりました。これは、チームの不足の現れですが、私自身の問題の現れでもあると思います。もう一つ、この「ai」事件から啓示された重要なこと、おそらく最も重要な啓示は、私が明慧の仕事に関わっていることを修煉の中で得たもの、あるいは「私」が明慧の仕事にどれぐらいの力を入れたか、というふうに捉えてはいけないことです。明慧は人を救うための神聖な環境ですから、自分は明慧での仕事をより良く他人のために奉仕する機会として捉えるべきです。Facebookのミスは、私が修煉において向上すべきであり、利己主義の「ai」から脱却し、衆生を救い済度するために無条件に奉仕する無私の生命にならなければならないことを示しています。

 しかし、それだけでは終わらなかったです。

 同修が法会の記事を送ってきた時、多言語チームの協調人は、中国語明慧に掲載するにはかなりの修正が必要だという意見を出してくれて、また「欲望と病気を取り除くことに関する話題は、法会の体験の例として取り上げるべきではない」と強調しました。この指示に従い、記事を修正し、中国語明慧に送りました。しかし、中国語明慧がそれをさらに修正し、発表したのは1カ月後でした。人を救う内容のみがまとめられ掲載されました。また、記事の最後には、読者に法輪大法をより包括的に理解してもらうために、背景となる情報を追加しました。これは、読者のことを第一に考えていることだと思います。しかし、私たちはそのようにしませんでした。

 中国語明慧では、記事の編集を非常に重視し、法を正す進展などさまざまな点を考慮していることを感じました。私たちはもはや個人的な修煉の段階ではなく、この最後の時期の法会は、病気治療と健康保持や、感性的な認識よりも大法を実証し人々を救うことに重点を置き、この過程でもっと深く真の心性の修煉を重視すべきであると、自分は悟りました。私は、明慧の仕事の神聖さを感じました。法を正す進展について行けるよう、文章の編集をより良く行えるためには、精進して自分の主意識を修煉するしかありません。ですから、記事に使う写真の明るさ、色、角度や、記事の中に盛り込むメッセージ、そして最も重要なのは、中国語の明慧の読者が何に興味を持つかを含めて、すべて人を救うためであり、未来に手本を残すためなのです。これは、個人の好みに合わせて記事を編集することではなく、新しい宇宙への責任と関係しているのです。 自分の容量を拡大し、明慧の一員として真面目に取り組む必要があると痛感しました。

 写真から大きな問題を発見

 最後の教訓は、最初の活動の記事に関連しています。具体的に言えば、記事の最後に掲載されている写真についてでした。ある中国人同修から、この写真は不適切なので削除してほしいという意見がありました。それは、中国大使館の前で、参加者が笑顔で立っており、大使館に背を向けてカメラ目線で、発正念をしているポーズをとっている写真でした。記事に対する指摘が、私たちの向上に関係するものであることはすでに認識していたため、不愉快に感じることはありませんでした。私はすぐに確認し、写真を削除しようと思いました。

 しかし、一部の同修は「この写真に問題はない」と反対しました。また、一部の同修は、各国の中国大使館の前で撮った写真の記事のリンクをシェアし、議論しました。これらの議論を目にして、私は非常に冷静になり、この指摘は理に適っているという結論を得ました。写真は、同修たちが発正念をしているポーズをとっていて、目を開けて笑顔で、中国大使館が飾りの背景となっているものでした。私は「私たちは断固として邪悪に立ち向かい、取り除くべきで、そこで笑顔でポーズをとるべきではない。私たちは表面上の形を見せるのではなく、実際に邪悪を滅しているのだ」と思いました。指摘のメッセージからは「中国の一般人がこの写真を見て、西洋社会の法輪功学習者が中国大使館の前で楽しそうに笑顔でポーズを取っていると勘違いしてしまいます。これでは間違った情報を発信していることになります。一方、他の報道では、学習者たちは大使館と向き合い、邪悪を取り除くために発正念をしているのです。これは明確な違いです」と教えてくれました。後日、ある明慧チームのメンバーは「そうです。本当に気づくべきで、あの写真は載せないほうがいいです」と言いました。私が理解したのは、私たちがどのように、そしてなぜこの事をするのか、つまり、なぜ記事を発表するのかをはっきり認識する必要があるということでした。なぜなら、私たちは主意識を修煉しているからです。

 強調したいのは、その写真を撮影した同修がわざとしたとは思わないし、同修を責める気もまったくありません。世の中には偶然なことはなく、その写真がなかったら、その後の議論もなかったでしょう。その写真は、私たちが内に向けて探すためのとても良いヒントになっていることに気づきました。それは、一人の個人としても団体としても、修煉の中で向上すべきであり、本当に邪悪を消滅し、「自分はもう十分にやり遂げた」という形を飾るべきではない、と言っているような気がしました。

 苦心の按排

 以上のように、師父が私たちの向上のために苦心に按排して下さったすべての機会に、深く感謝いたします。また、修煉を高める機会を提供してくれた中国語明慧に感謝しています。記事の細部にまで気を配るということは、修煉の精進している状態が反映され、仕事の基点が法を正す需要に基づいていることを示しています。私たち明慧の仕事は、法輪大法の真の修煉に基づくものでなければなりません。師父の苦心なる按排を、私はもっと深く理解すべきです。

 最後に皆さんと一緒に師父の説法を思い出して、私の話を終わりにしたいと思います。

 「私は大法のプロジェクトに参加する一部の大法弟子を敬服します。例えば、明慧に携わる学習者は他の学習者と同じように活動に参加することができず、大法弟子の他の活動にも参加できません。参加しても自分が何のプロジェクトに関わっているかを打ち明けることもできません。何と言っても今は非常時です。大紀元の記者や新唐人の編集者は身分を明かしたり、担当の仕事を話したり、大きな責任を背負う大法弟子なので、名誉のあることのように話しています。しかし、明慧のスタッフは何も言えません。いくら功労があっても心にしまっておくしかありません。一日、二日は問題なく、一年、二年も問題ありませんが、あっという間に二十年が経ちました。(皆が拍手する)実は黙々と大法弟子のプロジェクトに参加している多くの大法弟子、他の大法弟子も同じで、黙々と取り組んでおり、本当に素晴らしいのです。神から見れば、一目を置かれる存在です。私はこのような学習者を敬服しています」[1]

 師父、ありがとうございます!

 同修の皆さん、ありがとうございます!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』

 (2022年明慧多言語部門法会の発表文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/9/29/450122.html)
 
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