文/中国大陸の大法弟子
【明慧日本2022年6月11日】以前、ある集団学法に関する記事を読んだことがあります。 そこの集団学法に参加するということは、神聖な殿堂に入るように、神聖であり、荘厳で厳かな気持ちになると言う内容が書いてありました。ここで 自分自身が印象に残っている集団学法の話をします。
一. 市内で仕事をしていた頃、二つの集団学法に参加しました。 一つは家から歩いて10分のところにありました、もう一つは自転車で20分かかる遠方です。まず、私は遠方のほうを選びました。 週4日、夜8時から学法が始まります。 その集団学法は同修の自宅で行われていました。同修の自宅は共同ビルで、ノックの音を避けるために、同修は10分前に少しドアを開けておきます。 7時55分前には、学法に参加する同修が全員揃ったら、同修の家族がドアを閉めます。 同修の日常生活に支障をきたさないように、みんなはあまり早く行かないように、始まる少し前に、入り口で挨拶した後、法を学ぶ部屋に行き、法を学び終わるまで、印を結んで、足を組んで坐禅します。
同修達は、法を学ぶ以外は、一言もしゃべりません。 最初はとても窮屈で、まったく身体を動かす勇気がありませんでした。 時には気後れしておじけづきそうになり、自宅近くの集団学法に行った方が気楽だと思いました。早くても遅くてもいけない、おしゃべりもできず、足を伸ばしたりできないので、時には眠くなることもあります。 何度か通ううちに、いつも誰かに見つめられているような、そんな視線を感じて、まるで自分は悪いことをしたかのような、自分に自信が持てないような、不安な気持ちになってきました。
その後、しばらく休んでいましたが、また遠い方の集団学法の場所に戻ることにしました。職場が遠方であったため、仕事が遅くなり、家に帰って食事を摂るのが遅くなることもあり、食事を抜いたり、途中で何か買ってきて食べることもありました。 時間は限られていますが、いつの間にかこの集団学法はとても安心することができ、窮屈さを感じなくなりました。
二. 同修の一人が病業の関に遭遇した時、会いに行くようにと他の同修から言われ、同修と一緒に尋ねることにしました。病業の同修の家に着いたら、他の同修はまだ来てないと思っていたのですが、家族が寝室のドアを開けると、大勢の同修達が輪になって、床にぎっしり座っていたのが見えました。 私は玄関で同修たちと身を寄せ合っていたのですが、彼らは皆、厳粛で慈悲深い、穏やかな表情をしていました。静けさ以外に、同修達の落ち着いた話し声しか聞こえません。私は息をひそめて、じっとしているしかありませんでした。同修達は順番に一人ずつ発言して、他人の話に割り込む人は一人もいませんでした。そんな光景を見たのは初めてでした。
この二つの場面は今でも忘れられません、あれから自分の自制心もずいぶん高まりました。 私と同修たちを結びつけたのは大法の聖なる縁であり、法でつながった縁です。 ですから、私たち同修との間では、修煉の話以外には何も話しません。 仕事をしているためか、同修と一緒に法を学ぶ時間が少なく、周りに同修もおらず、ほとんど一人で学法しています。 一緒に法を学び、一緒に煉功している同修達のことを思うと羨ましくなります。
同修全員は一体であり、長い間一緒にいますと、どうしても小さな衝突がおき、 葛藤があるのは当たり前です。 他人の長所を見て、自分の短所を見つければ、それにより前へ進むことができます。そして最も大切なことは、そのトラブルを活かして向上することができることです。 師父は私たちに集団で法を学ぶ環境を残してくださったのですから、私たちは一緒に法を学ぶのは最も良いことです。私に安逸 心があるため、昼にある少しの休憩時間になると学法に行きたくなくなる時があり、おじけづいてしてしまうことがあります。
私は法を得たのが遅く、同修との接触も少ないので、自分の話したことが法に則っているかどうか不安です。間違っていたら同修の寛容とご叱正をお願いします。