積極的に修める
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 【明慧日本2022年8月6日】夜の家事やプロジェクト等を終えて、まだ時間が早いので、坐禅をしようと思いました。坐禅をするのは忙しい1日の中で一番楽しい時間なのです。

 音楽が流れて来て、徐々に安らかな状態に入り、身体が暖かいエネルギーに包まれ、とても気持ちが良いのです。しかし、しばらくすると雑念が頭に現れて来て、身体が軽やかな状態を感じなくなり、足は痛くないのですが、1時間も経っていないのに足を下ろしてしまいました。私は、ちょっとがっがりして、今日の状態は良くないと思いました。

 この時、私はなぜ積極的に雑念を抑えようとしないのか? と思いました。煉功はただ本体を転化するのではなく、これは修煉の過程でもあるのではないでしょうか。思惟の中で現れてきた雑念は、正にそれを掴みだし、取り除く機会ではないのでしょうか。これは、私が長い間抱えていた問題を反映したものです。私はいつも大法の力に頼って執着を取り除き、学法を多くすれば知らないうちに情や欲望等を放下できると思っていました。しかし、積極的に自分を修めておらず、特に自分の執着が分かったとしても、多くの時、放任してしまいました。これは正に不精進の現れではないでしょうか。そのため1つの次元に長く留まってしまったのです。

 師父は「いつも師父に「以前法を読むとき、次元の向上が早く、本を読むとき認識したものが次から次へと現れてきますが、なぜ今はそういうことがなくなったのか」と言っている人がいます。皆さん自分で考えてください。あなたは「初志貫徹」して修煉しているのでしょうか?」 [1]と説かれました。

 法を正す時期は、もはや最後の最後に来てしまい、私は急がなければならず、あらゆる面で積極的に大法に照らし、内に向け探し、執着を取り除き、大法弟子の標準条件を満たし、より多くの衆生を救うよう自分に言い聞かせなければなりません。同修とお互い励まし合いましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文【二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/8/4/447203.html)
 
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