文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年8月30日】3月中旬、私の地区ではまた新型コロナウイルスの流行が発生し、コミュニティがロックダウンされました。ロックダウンが解除された翌日、出勤した私はリストラの通知を受けました。店の厨房では1人のシェフだけが残る予定なので、厨房の手伝いをしていた私は解雇されることになりました。その時私は心が動じず、特殊な時期だけに、他の多くの職場もリストラを行っているので、ごく普通なことだと思いました。
最後の3日間、私はいつも通り仕事をこなし、やるべきことをやりました。最終日の食事を提供する前に、同僚は「姉さん、流行が過ぎ、すべてが正常に戻って、また人を募集することになれば、必ずあなたに声を掛けますね」と言いました。その言葉に微笑んでいる私を見て、彼女はこう続けました。「本当ですよ。あなたは手先が器用で何をやってもきちんと仕事ができて、心が優しく、損得などまったく計算していません」同僚に一気に高く持ち上げられてしまったと感じた私は、「これは私の何の執着心に対する試練なのか?」とすぐに自問しました。でも、食事の提供をしなくてはならないので、私はそれ以上考えませんでした。
家に帰って発正念を終えた後、足を組んで目を閉じたまま、私は勤務中に同僚に言われたことを思い出しました。「これは私の何の執着心に対するテストなのか? 同僚がお世辞を言っているのか? そんなはずはない。翌日に離職する私に対して、それをする必要はない。私は自分を見せびらかしていたのか? そうでもない。私は普段通り仕事をしていた。私には聞こえの良い話を聞きたがる心があったのか? そうでもないようだ。彼女は真心からそういう話をしていた感じだ。しかし、聞いていてやはり何だか違和感がある。私だったら、こんな良い言葉ばかりを並べることはない。私は人を褒めたがらないタイプだ。なぜ人を褒めたがらないのか?」と思った瞬間、私はぱっと目を開けて、「嫉妬心だ」と無意識的に口にしました。
そうです。私は決して人に良い話をしないし、人を褒めたくもありませんでした。人の良い面が見えたとき、私はそれを心にしまっておいて口にせず、人のために喜ぶこともありませんでした。私が口にするのは常に他人の問題であり、他人の欠点ばかりであって、しかも平然と指摘していました。私には見かけが堂々としている言い訳があったからです。それは、「私が言っていることはあなたの耳に障るものであるかもしれないし、必ずしも本質を突いているのではないかもしれないが、私の意図が良いもので、あなたの考え方はためだと思っているからだ」というものです。
なぜ他人の長所を口にすると違和感を覚えるのでしょうか? それは「他人に良いことがあったら、その人のために喜ぶどころか、自分の心のバランスがとれなくなります」[1]からです。なぜ他人の欠点を指摘するとき、そんなに淡々とできるかというと、「あなたのために」という名目で、自分のバランスが崩れている心を宥めることができるからです! 神韻公演のライブインタビューを見ますと、海外の観客は神韻の各演目、各細部を記憶に留め、心の底から滔々たる賛美を口にし、聞く者には一種の臨場感まで持たせています。私も神韻が良いとは思っていますが、良い言葉が思いつきません。以前は深く考えたことがなく、自分が内向的で口下手だとずっと思っていましたが、美しいものや他人の長所を褒めることができず、その意欲さえなかったのは、嫉妬心に阻まれていたことがようやく分かりました。
修煉は本当に不思議なもので、常人社会では私は失業者になりましたが、深く隠されていて長年発見できなかった執着心を見つけました。必ずそれを取り除きます! 周りのすべての人に感謝しています。良いことも悪いこともみな、修煉者にとっては良いことなのです。
この関を乗り越えようと何度も頑張っており、できるまで長い時間がかかっていたため、この体験を書くつもりはありませんでした。しかし、同修の交流文章を読む度に、必ず認識していなかったことに気づき受益しているので、書き出さなければ自分があまりにも利己的すぎると感じ、こうして書き出して、私と同じ執着を持つ同修への注意喚起となればと思いました。
法に符合しない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』