機縁を大切にし 嫉妬心を取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年10月4日】昔のお話なのですが、唐の時代に玄奘法師が法を求めるためインドに行ったとき、大菩提寺で、二人の菩薩を見たそうです。地元の噂では、もし、その菩薩が土の中に完全に沈み込んでいれば佛教が滅びるのだそうです。玄奘が到着した時には、菩薩はすでに胸まで埋もれていました。それを見た玄奘は激しく泣きました。生死を恐れず、インドまでの途中であらゆる魔難を経験しても涙を流さなかった玄奘が、その時、天を仰いで号泣しながら、「佛様が成佛した時、私はどこに迷っていたのか分かりませんが、なぜ佛法が凋落する時期に私はここに来たのでしょうか?」と言いました。

 この話から、玄奘法師の修煉への敬虔さと佛法に対する思いが究極に達していたことがわかります。私たちはこの歴史の特別な瞬間に、幸運にも宇宙大法に出会うことができ、自分の生命を用いてより良く大切にすべき理由があります。なぜなら、宇宙大法が私たちの生命を作り上げて下さったからです。

 集団学法に初めて参加した時、師父は私に大法の超常さを感じさせて下さいました。その時、私は巨大なエネルギーに包まれ、温かいエネルギーが身体の隅々まで染み渡り、身体が思わず上に引っ張り上げられ、まるで空中に自由に浮かんでいるようでした。身体が宙に浮いても、落ちたり揺れたりせず、その快適で素晴らしい状態は未だに私の記憶に残っています。私たちの学法グループの同修は、みな着実に修煉しています。古代人は「人を鏡にする」と言っていたので、私は同修から自分の中の多くの執着や欠点を見つけて、絶えず自我を突破していき、修煉の困難から抜け出すことができたのです。

 ここでは、一例をご紹介して皆さんと交流します

 ある同修が私と交流したいと言って、ある場所で待ち合わせたのですが、約束の時間になっても彼女はまだ来ません。私は、「同修が来るまで待とう」と思いました。10分ほどして彼女がやってきて、「出るのが遅くなったので、私はあなたに向けて『もしあなたが来たら、私を待つように』と発正念をしました。やはり私の正念が強くて、効き目があったようで、あなたは本当に離れなかったのですね」と言いました。それを聞いた私は、心の中では少し違和感を覚えましたが、二人の交流に影響しませんでした。

 家に帰った後、まるで心に物が詰まったように感じました。私を見た時に同修が言った言葉を思い出すと、とても納得がいかなくて、反論したくなりました。「あなたを待ったのは私です、あなたの発正念と関係ないはず! 約束の時間に来なかったこと自体が間違っていたのに、謝りもせず、逆に自分の功能で私を抑制したと言っている。自分の正念がいかに強いか、本当に私に効いたなどと得意げに言い、私より修煉ができていることをアピールしているの? そういう意味ではないですか! 私より修煉ができているなら、なぜ私と交流しようとするのか……」と考えれば考えるほど、アンバランスになりました。

 突然、誰かに頭を叩かれたように感じ、「このように考えてはいけない、自分が不愉快だと感じたのは嫉妬心だ」と悟りました。同修が遅刻したのは、急用があったかもしれず、同修を許すべきで、不平不満の心をなくすべきです。同修の正念が本当に働いたからこそ、自分はずっと待っていたのかもしれないのに、なぜ、この可能性を認めたくないのでしょうか? なぜ、同修が自分より優れていることを認めたくないのでしょうか? 同修が良く修煉できていることは、大法の偉大さと師父の慈悲をより実証するものであり、同修を向上させたのは大法ですから、どうして同修のために喜ばなかったのでしょうか? 嬉しくなかったのは、師父が同修を救い済度されるために支払われた苦労を認めないのではありませんか? この一念の中には、師と法に対する不敬、信じない要素が入っているのではないでしょうか。これを悟った自分は冷汗をかき、すぐに師父の写真の前にひざまずき、「師父、弟子は間違いました、本当に間違いました。師父、弟子を許して下さい、弟子は必ず自分を修正しなければなりません!」と謝りました。実は、このすべては嫉妬心のせいなのです。

 気持ちを切り替え、不安だった心が落ち着く

 この事を整理してみると、この問題自体は少しも重要ではないことが分かりました。大切なのはトラブルの中で自分の取り除くべき人心であり、それは私の嫉妬心を取り除くために、師父が苦心して按排して下さったのです。ここまで考えると、かつて心を乱した物質的なものは、すでに全く私を動揺させることができなくなりました。納得できないと感じていたものは、自分自身を変えず、変えたくないという気持ちに慣れていた観念だったのです。それらのいわゆる慣れた悩みは、いずれ大法の中で正されることになります。その前提は、正しく悟った後、自分で乗り越えることなのです。迷っている時に自分を支えて下さるのは、大法しかありません。そう考えたとき、私は心の中で「真・善・忍だけを求め、真・善・忍に符合しないすべての考えは要らない、全部取り除き、滅する」という一念を発しました。

 瞬間、空が澄み、体が透明になった気がしました。そして、月の光の中で、他の空間の花が色とりどりに揺れながら、私に微笑んでくれました。

 後記:「明慧週刊」の創刊当初は、私の心が傲慢でほとんど読まなかったのです。 2004年頃、慈悲深い師父が啓示され、それは別の空間で黄金色に輝いているのが見えました。それ以来、毎号謙虚な気持ちで読み続けています。

 適切でないところがあれば、同修のご指摘をよろしくお願い致します。合掌

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/9/17/449576.html)
 
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