電波ジャックの勇士 懲役19年の重刑を経て九死に一生(一)
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 【明慧日本2022年12月26日】(明慧ネット通信員、黒竜江省での報道)2002年8月17日と18日、法輪功の無実を伝えるビデオ『証人』と『歴史の審判』が、同時に30分間放送された。放送されたのは、甘粛省の一部地域および青海省西寧市の4つの地元チャンネル。江沢民グループはその報復として、狂った様に地元の法輪功学習者(以下、学習者)を逮捕した。そのうち学習者15人は身柄を拘束され、最長20年の重刑を宣告された。当時34歳の孫兆海さんは懲役19年の不当な判決を宣告されたが、九死に一生を得た。

孫兆海さん

 孫兆海さん(孫照海さん)は黒竜江省ジャムス市の一般家庭に生まれ、父のDVの中で幼少期を送った。20歳の時に「不死のガン」と呼ばれる肺結核を患った孫さんは、両肺に空洞があって咯血し、身体が弱くて痩せこけ、毎日苦しんでいた。

 1997年、孫さん夫妻は法輪功を学び始め、人生の本当の意味を見つけた。もっと不思議なことに、孫さんの病気は完治したのだった。1999年7.20、法輪功を学ぶ幸せに浸っている孫さんに突然、弾圧が始まった。しかし孫さんは多くの学習者と同様、暴行に屈服せず、自ら法輪功の名誉を守り、法輪功の素晴らしさを伝えた。

 人々は中国共産党(以下、中共)の虚言に騙されており、より多くの人々に真実を伝えるよう、孫さんは2002年に電波ジャックの企画に参加した。そして甘粛省と青海省の人々に法輪功の無実を伝えるビデオを放送したが、その報復として、当時34歳の孫さんは懲役19年の重刑を宣告された。

 34歳からの19年間は、人生で最も美しい歳月だが、孫さんは蘭州刑務所で過ごした。孫さんに信念を諦めさせるよう、中共関係者は何度も孫さんを牢屋に監禁し、足枷をかけ、熬鷹(日本語では「疲弊した鷹」のことをいい、睡眠剥奪の拷問のことをいう)、凍え、飲食制限、睡眠禁止、虎椅子に座らせる、死人ベッドに寝かせる、灌食などの拷問を加えた。孫さんはさらに同時に多くの警官に殴られ、肋骨2カ所を骨折した。そして警官の黙認のもと、他の囚人に脳しんとうを起こすまで殴られた。

 蘭州刑務所で19年間の拘禁の後に再び自由を得た孫さんは、自らが受けた拷問の一部を語った。

 「1カ月後、私は牢屋から解放され、また別の部屋に拘禁されました。当時、私の身体はとても衰弱しており、熬鷹という刑を受け、プラスチックの小さい腰掛けに座らせられて9日間睡眠を禁じられました。

 気を失ってから、私はプラスチックの椅子の背もたれに寄りかかって4時間ちょっと寝ることが許されました。その後、また3日間寝かせてくれませんでした。その時の私は自分の限界がどこまでできるか、この拷問がいつまで終わるかを知らず、1分、1秒がとても長く感じ、1日が1年のように長くてつらかったのです」と語った。

 孫さんは、自分の人生経験と遭遇した苦難、そして法輪功に対する強い信念を次のように述べた。

一、辛い人生、法輪功に出会う

 孫兆海さんは1968年に生まれ、4人兄弟の次男として育った。同級生よりも大人びていた。孫さんは、自分の生い立ちをこう振り返っている。

 「小さい頃から読書が好きで、小学校3年生ではまだ全ての漢字が読めないにもかかわらず、古代の小説やいろんな書籍を読み始めました。お小遣いがあれば本を買ったり、道端の本屋でレンタルしたりしていました。本を読むのが大好きで、寝食を忘れるほどでした。

 『三侠五義(さんきょうごぎ)』、『岳飛伝』、『封神演義』、『三言二拍』などの本から中華民族の伝統文化ー五常の徳「仁義礼智信」、「温和・善良・恭敬・節制・謙譲」などから、気付かないうちに私の性格が形成され、正義感の強い、誠実な人間になりました。

 物心ついた頃から、私の家庭では常に家庭内暴力の影響が現れていました。父は気性が荒く、アルコール中毒で、機嫌が悪くなるとすぐに私たちと母を殴りました。12、13歳ごろ、私は小さなミスを犯し、父の暴力から逃れるため、家出して田舎の親戚の家に居候しました。あの時代は通信手段が殆どなく、2カ月あまりで私はやっと家に帰る事が出来ました。父は私が再び家出するのを心配したのか、それ以降、ほぼ殴られる事はなくなりました。

 母は父からDVを度々受けており、生活の希望が見えず、私が6、7歳だった頃に一度農薬を飲み自殺しようとしましたが、幸い命に別状はありませんでした。私が18歳になると、父が暴力を振るおうとすると、私はいつも前に立ち塞がって母を守りました。あれ以来、一つ屋根の下で別々に暮らす様になりました。そして1990年に父は重体に陥りましたが、優しい母は文句を言わず、最後まで父の面倒を見ました。

 私の子供時代に楽しい思い出はありません。中学校に入ると、私は自分の考えをしっかりと持つようになりました。いつも人間がどこから来たのか、どうして人類が存在するのか、などと疑問を抱いていましたが、いくら考えても分からないままでした。たくさんの書籍を読みましたが、答えが見つかりませんでした。

 1985年に17歳で中学校を卒業した私は入社試験に受かり、ジャムス友誼飴工場の従業員になりました。1988年、在職しながら勉強し続け、高校卒業の資格をもらいました。生活が少しずつ良い方向へ向かっていました。1988年末、20歳の私は熱が出てから1か月後に病院でレントゲン写真を撮ったところ、肺結核のIII型(不安定非空洞型)と診断されました。私は工場の病院で治療薬を飲み点滴を打ちましたが、身体が衰弱して風邪を引きやすくなり、息切れや喘息で力がなく、いつも体調が優れませんでした。

 1989年秋、私の両側の肺に空洞ができ、咯血し始めました。ちょっと動くだけでも息切れがして、結核専門の病院で2カ月間入院しました。病状が抑えられたものの、毎年風邪を引いたり、熱が出たりすると結核が再発して結核性胸膜炎の症状も伴っていました。あの時代の結核は根治できない病で、「不死のガン」と言われていました。母は「息子の人生はもうお終いだ」と嘆きました。当時の私は172cmで体重は50kg未満であり、ガリガリでした。

 1994年に妻と出会い、仲睦まじい家庭を築き、経済的にも好転しました。1996年、私は会社の警備隊部門に異動しました。そして1997年3月、ある同僚が法輪功を紹介してくれました。同時に『轉法輪』という法輪功の書籍を買って読むように勧められました。私は、その同僚が以前に習った気功をやめて法輪功を学ぶようになったことに驚いていました。

 同年4月、妻と出かけて道端の本屋で『轉法輪』を購入しました。3時間あまりで一気に最後まで読みました。

 本を読んでいる間、私はとても感激し、涙が止まりませんでした。幼少期からずっと考え続けた「人生の本当に意味とは何か」の答えをやっと見つけました。この本は、私の人生の中の迷いに全部答えてくださいました。人生の本当の意味は、修煉して返本帰真することだと気づいたのです。この大法は素晴らしいです。3カ月後、私の天目が開き、法輪が見えました。静かにしていると、体の前と後ろに法輪が回っていると感じました。

 2、3日後、妻と集団煉功と集団学法に参加しました。集団煉功に参加した8日目に家に帰る途中、胸と背中が激痛に襲われました。腰がまっすぐにならないほど痛かったのですが、私は全く恐れていませんでした。きっと身体の良くない物質が取り除かれているのだと分かっていたのです。誰にも言わず、私はゆっくりと家に向かって歩きました。3分程度歩くと、痛みは急に消えました。肺結核は、完全に治りました。師父が身体を浄化して下さったのです」

二、初心を貫く

 孫さんは続ける。

 「悲惨な幼少期、苦しい青年期に経験した苦しみは、法輪大法を学んでから全てなくなりました。その幸せに浸っている矢先、私に暴風雨が待っていました。

 1999年4.25以降、多くの煉功点は公安警官の嫌がらせを受けました。私は沿江公園煉功点で煉功していました。ある日、煉功が終わると、新しい学習者と自称する50代の男性が私の住所を知りたいと声をかけてきたので、私は自宅まで案内しました。

 家に着くと、私は彼に自分が法輪功と出会った経緯をシェアしました。その時、なかなか手に入らない書籍『シドニー法会での説法』、『米国法会での説法』があると話したところ、彼が「持っていない」と言うのであげようとしたのですが、彼は結局、お金を払って帰りました。あれ以来、会ったことがありません。

 1999年7.20、他の学習者から政府が法輪功を取り締まろうとしていると聞き、われわれ十数人で北京へ陳情に行くと決めました。北京に向かう途中の列車で、一部の同修は強制的に下車させられ、残りは7人になりました。列車がまだ黒竜江省から出ていないうちに、他の地域の学習者も地元政府に連れ戻されました。その時、北京駅では厳しく調べていると聞いたので、北京から最も近い三河市で下車すると決めました。7人は3つのグループに分けて、バスで北京に向かうことにしました。

 7月22日午後3時、三河市役所の入り口で、集まった一部の学習者を見かけました。外のスピーカーで法輪功を取り締まる通告が流れていました。私と鄭立斌さん(迫害で他界)は足を止めて少し聞き、地元学習者に声をかけませんでした。

 焦る気持ちでバスに乗って北京に行く途中、2カ所で武装警官が乗車し、検査されました。天気も蒸し暑く、速く北京に入りたいと思いました。そして午後5時すぎ、北京に着きました。私たちはタクシーで府右街に行き、それから天安門広場に行きました。天安門広場には私服警官がいっぱいいて、とても緊張した雰囲気でしたが、私は少しも恐れませんでした。夜7時過ぎ、地壇のホテルに泊まりました。まず何よりも先に地元の学習者と連絡を取り、これからどうするのかを相談したいと思いました。

 北京房山区の南尚楽村のある山に、放置された白い塔がありました。8月の初め、そこで200人程度の法会が開催されました。その大多数が北方出身の学習者で、ほとんどの北方都市の学習者が参加しました。法会のテーマは、現在の抑圧的な状況を前にして、私たちはどうすべきかについてでした。数人の学習者が自分の見聞きしたことや感じたことなどを話してくれました。私たちは、より多くの学習者が出て法を実証し、積極的に大法を広めることに合意しました。法会では、集団煉功もしました。

 私服警官が山に登って来たので、私たちは分散して山から降りました。しかし道路までたどり着いた時、数人の学習者が身柄を拘束されました。今回の法会は羅幹(法輪功への大量虐殺・臓器収奪の首謀者である江沢民の追随者)を驚かし、「大きな案件」、「重要な案件」とみなされ、調査されました。

 北京の法会に参加してから一度故郷に戻り、一部の学習者と交流して再び上京しました。妻も辞表を出し、数千元を借金して私と一緒に上京しました。

 1999年9月24日の中秋節、私の電話が盗聴され、夜7時か8時頃、三間房派出所の警官と武装警官数人が私たちの通州にある貸家に侵入しました。その時は部屋に十数人の学習者がいました。私と妻、尹海珠さんはジャムス市出身で、他は違う出身でした。

 私たちは北京三間房派出所に連行され、男性学習者は武装警官に殴られ、尋問調書を取られました。2人の妊娠中の女性学習者以外、他の人は全部朝陽区留置場に拘禁されました。妻も妊娠中で、ジャムス市まで連れ戻されました。

'酷刑图片:被警察殴打'

拷問イメージ写真:警官に殴られる

 私と尹海珠さんは、過酷な朝陽留置場で拘禁されました。新しく入った私たちは、いじめられました。拘禁される人数が多すぎたため、私は床で横向きで寝ていました。

 4日間後、ジャムス市の駐北京事務所は、私をジャムス市に送り返しました。列車に乗った私は手枷をかけられ、26〜27時間後に居住地の派出所に着きました。

 ここで一つの奇跡をお話しします。私は身柄を拘束された時、北京の警官に荷物を片付けるようにと言われました。私は十数冊の法輪功の書籍や資料、2枚の服を大きなキャンバスのカバンに入れて貸家から派出所まで、それから北京朝陽留置場に持って行きました。

 ジャムス市に戻って、車に乗って派出所に行く途中で、弟が我が家に帰る道に現れました。私は警官に「車を止めてください。弟に渡したいものがありますから」と頼んで、法輪功の書籍を入れたカバンを弟に渡しました。実は、列車に乗った時に脱出するチャンスがありましたが、法輪功の書籍を置いておきたくないので、脱出しませんでした。この純粋な心があったからこそ、奇跡が起きて法輪功の本が守られました。

 1999年10月1日、永紅支局が留置場に入る手続きを済ませてから、私はジャムス市留置場に送られました。そこでは毎日2食の窝头(トウモロコシやコウリャンなどの粉を水でこねて円錐形に丸め,蒸して食べる食品)と塩水の大根スープだけで、油物はありませんでした。私は子供の時、雑穀を食べ過ぎて食べられなくなったため、最初は窝头を半分しか食べれませんでしたが、徐々に慣れてきました。

 同じ牢屋に15、16人がいて、当時拘禁された学習者としては馬学俊さん、王文義さんなど5、6人はいました。妹はコネを使って、支局の人と連れ立って「煉功しない保証書」を書けば解放できると言いましたが、私は同意しませんでした」

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/12/14/453091.html)
 
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