電波ジャックの勇士 懲役19年の重刑を経て九死に一生(二)
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明慧日本2022年12月28日】前文に続く)

 三、最初に労働教養処分を科され、2年の拷問

 孫さんは、続ける。

 「黒竜江省ジャムス市労働教養所は、市西郊の西格木郷にあります。ゲートは北向きで、13万以上平方メートルの広さがあり、ジャムス市司法局の管轄です。

 法輪功を迫害するため、ジャムス市の市委員会、市政府は労働教養所に資金を投入し、ビル2棟を建て、監視設備を揃えました。女性学習者を迫害する女子大隊刑務所の宿舎は2000年秋から使用し始め、4,000平方メートルの広さがあり、3階建てで合計12,000平方メートルです。

 1999年10月の中下旬、刑務所のスーピーからニュースが流されました。私は職場を追放されたそうです。

 1999年11月3日、女性学習者13人、そして私を含む男性学習者4人は市文化宮でいわゆる「公開裁判」にかけられました。司法機関者と610弁公室、政法委員会(治安・司法などを統括する機関)のメンバーなどは台の上に座り、私たちは下でちょっと立っただけで判決を宣告されました。「社会秩序を撹乱」との罪名で、1年から3年の労働教養処分を科されました。私は、2年の労働教養処分を処せられました。

 ジャムス市西格木労働教養所で初めて食べた食事は、粗末な小麦粉で作られた蒸しパン、綺麗に洗っていない冷凍かぼちゃで作られた塩味の煮物でした。お椀がなく、数人が鉢を囲って食べましたが、鉢の下に泥が付いていました。労働教養所では2つの大隊があり、それぞれに3つの中隊がありました。

 杜文福さん(迫害で死亡)、劉俊華さん、呉春竜さん(迫害で死亡)と私は最初、集中訓練隊にいましたが、その後、私は二大隊の四中隊で迫害を受けました。2000年夏に女子労働教養所が作られましたが、私は苦役の労働をさせられ、ビルを建てる材料を運んでいました。男性労働教養所と女子労働教養所は、歩いて5分ほどの近距離でした。

 冬に入る前、脱走のチャンスがありました。36人の学習者のうち、12人が脱走しました。この件は全ての人を驚かせました。しかし、鶴北林業局の学習者・賈永発さんは脱走してすぐに発見され、数日間殴られ、刑期が終わるまで迫害され、解放された後に永眠しました。

 脱走の件があったため、私は男子労働教養所に戻りました。転向チームが組まれ、私たちに転向を強要しました。教育課長は、共産党の理論で私たちを洗脳しようとし、偽りの天安門焼身自殺の動画を見せました。

 真冬になると、私は単独で給湯室と倉庫の牢屋に拘禁されました。部屋は湿気が多く、とても寒かったのです。水が溜まると、床が凍りました。昼の間、私は布団を被り、暖房に背を向けて寄りかかっていました。他の学習者に会わせないように、私はほとんどの時間1人でした。1人で寝ますが、2人に監視され、トイレに行きたい時だけドアを開けれくれます。給湯室にいる時、私はよく冷たい水で体を洗い、重苦しい気分を発散させました。

 1か月余りして、ある優しい警官(妻が学習者)が、私を単独で長期に拘束することはよくない、部屋を変えるべきと提案しました。しかし、その警官は、そのために副隊長に昇進する話が無くなりました。十数日後、私はやや暖かい部屋に移され、転向した学習者と一緒にいました。

 2001年の旧正月の2日前、私は20人ほどいる牢屋に移され、中は全て転向した学習者でした。私は彼らとの意見が合わないために二大隊に移送されました。周りは一般人でした。昼間、他の人は強制労働に行き、私は1人でいます。ある日、私は煉功した時に大隊長の王鉄軍が牢屋に入ったのに気づかず、平手打ちされました。警官らは私たちに「転向しない者は、1日の刑期に対して半日を延期する」と言いふらしました。

'酷刑图片:扇耳光'

拷問の写真:平手打ち

 2001年8月、中隊の警官は私に「国務院が出した指令文書によると、法輪功学習者の刑期が満了した場合、すぐに解放する」と言ってくれました。しかし9月30日、私の労働教養所処分が満了したにもかかわらず、解放されませんでした。理由は10月1日の長期休暇があるため、私に影響されたくない、休暇が終わったら、地元街道に連絡して解放するのだそうです。私は警官に「刑期が満了しました。それより1日多く拘禁することは違法です。もし何か問題になったら、その責任を負ってください」と伝えました。

 私はチャンスを伺って、頭を壁にぶつけて血を流しました。この行動が彼らを驚かせ、10月3日、何も予告なく私を解放しました。妻と妹、街道の責任者は私を迎えてくれ、私は堂々と労働教養所から出ました。

 2年と3日間という時間は、普通の状況ではあっと言う間に経ってしまいます。しかし自由を失い、拘禁された私にとって、それはとてつもなく長く感じました。地獄のような生活は、私の心身に大きなダメージを与えました。一番心配していたのは、母のことでした。母は高血圧で脳出血になり、1998年に発病してから寝たきり生活を送っていました。私は親孝行ができず、弟夫妻に面倒を見てもらっていたのです。しかも弟夫妻は仕事をしておらず、妻の月収は数百元しかありませんでした。

四、電波ジャックで懲役19年の重刑を経て 九死に一生

 労働教養後、私の名前は、ジャムス610弁公室のブラックリストに入りました。公安の嫌がらせを逃れるため、旧正月の後、私は放浪生活を余儀なくされました。市内で部屋を借りたのですが、毎晩の深夜から夜明けには、よく警笛とドアをノックする強い音が聞こえ、学習者は随時連行される可能性がありました。

 2002年4月20日、ジャムスの有線テレビで電波ジャックが成功しました。当時、私は関わっていなかったにもかかわらず、610弁公室は若い男性学習者を重点的な目標とみなし、私に法輪功を諦めることを強要しました。私は妥協しなかったので、重要人物とされました。

 妻と結婚8周年の日、一緒にレストランで食事し、数日後の私の34歳の誕生日も一緒に祝うと約束しました。しかし、その日は来ませんでした。今回の別れからの20年間、私たちは一度も会うことがありませんでした。

 私は、逮捕される主要対象になりました。他の学習者の忠告もあり、私は故郷を離れ、放浪生活を余儀なくされました。7月ごろ、故郷から知らせが届きました。全市の大規模な逮捕者の中に私がいなかったため、妻が代わりに留置場に拘禁され、1〜2か月拘禁されたというのです。妻は職場と家族の脅しで法輪功を諦めました。私の知らないままに妹が用意し、離婚手続きをさせました。もっとひどいことに、学習者が飲酒しないと知っている職場は、飲み会で妻が本当に法輪功を諦めたかを確認するため、たくさん飲ませ、泥酔させたそうです。

(一)電波ジャックの成功

 山東省で私は同じ出身の学習者と集まり、放浪生活中でも最も有効な方法で市民に法輪功の無実を伝え、中共の虚言を暴露すべきと意見が一致しました。長春の電波ジャックの大きな効果を見て、私たちも電波ジャックをやりたいと思いました。

 技術を身につけ、一連の準備も整えてから、私は双鴨山出身の学習者1人と電波ジャック用の機材20台余りを山東省から蘭州市に運びました。蘭州地元の学習者に教えるつもりでしたが、地元の同修が身柄を拘束され、人手不足だったため、私は電波ジャックに参加しました。

 甘粛省蘭州市で電波ジャックに参加したすべての同修が必要な技術要領を身につけた上、8月17日の夜7時(いくつの地域は同じく17日に実施する予定だったが、良いタイミングを待ち18日に変更)に電波ジャックを予定しました。8月17日の夜19時のニュース時間帯、甘粛省の一部の地域および青海省西寧市の地元テレビの4つのチャンネルで電波ジャックすることができました。

 私と甘粛省慶陽市の学習者1人と一緒に西峰区に着いてから、病院前のガーデンで待機していました。その時、私は「19時前はまだ明るく、通行人も多い。もし雨が降れば、人が少なくなる」と思いました。目的地までタクシーで行こうと発車した時、風が強く吹き出し、通行人が慌てて走り出しました。

 目的地に近づくと、強風が大雨に変わり、路上にほぼ通行人がいなくなりました。私たちが着いた頃には雨粒が大きかったのですが、密度がそれほどなく、少し弱まる傾向がありました。屋根の上に登り、すべての機材を設置し終わり、DVDも入れた時に雨が上がりました。こうした不思議なことで、今やることが最も正しいことなのだと私にはわかりました。

 当時、全国各地は法輪功への迫害がひどく、蘭州市は江沢民グループ(法輪功への大量虐殺・臓器収奪の首謀者)の地盤でした。私は恐怖心があまりなく、自分のやるべきことなのだという気持ちでした。電波ジャックが成功し、私は地元の学習者と別れて江蘇省無錫宜興市へ向かい、そこにいる親戚のところに行ってから山東省に戻ろうと思いました。

 しかし、自分の油断から西寧市の学習者と連絡した時、携帯電話が追跡されました。江蘇省公安庁と無錫市公安局の警官は宜興市で私の身柄を拘束しました。その後聞いた話では、電波ジャックの後、江沢民グループは特別調査本部を立ち上げ、総力を上げて一刻も早く参加者を捕まえようとし、私がその第一号となりました。

 (二)宜興市留置場で「地環」をかけられ、灌食され、殴られて鼓膜が破れた

 私は宜興市留置場に連行され、手に拘束ベルト(手の動ける範囲はトイレと食事だけ)を付けられ、足に足枷をかけられました。私は断食で迫害に抗議しましたが、灌食されました。一晩地環(地面に固定されたリング)という刑具につけられ、横になること、座ること、立つこともできず、上半身はベッドに寄りかかり、下半身は床につけ、足が地面に固定され、極めて苦しい体勢でした。1日がこんなにも長いと初めて感じ、1分1秒がとても苦しかったのです。

 翌日、私は宜興市公安ホテルに送られ、尋問を受けました。その期間は睡眠が禁じられ、6人の特警(江蘇省武術大会で受賞歴がある)は3グループに分けられて、いろんな方法を使って電波ジャックの参加者と設備について聞いてきました。

 最初は態度が悪くなかったのですが、何も情報を得られないと特警は豹変し、1人は毛布で私の後ろから殴りました。もう1人は私に平手打ちを繰り返し、その結果、私の鼓膜が破れ、聴力は低下しました。私を長方形の木製の箱に座らせ、数日間も寝ることができませんでした。

 1カ月後、私は蘭州市公安国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)に、新しく建てられた第二留置場に拘禁されました。私は野良仕事の苦役に協力しないとして、手を後ろ向きに手枷をかけられました。足に足枷をかけられ、手枷と足枷は針金で繋がられたため、私は立ったり座ったり出来ず、横に倒れられない状態で半月間苦しめられました。しかし地元の学習者の努力により、中で学法と煉功することができました。

'酷刑图片:铐地环'

拷問の図:地環(地面に固定されたリンク)に掛けられる

 留置場で、蘭州市で当時有名だった詐欺師と知り合いました。彼は私を呼んで一緒に食事し、よく修煉のことについて聞きました。

 彼は以前、同じ牢屋に学習者がいて、神様のこと、修煉のことについて強く議論したそうです。寝る時に彼が議論の内容を繰り返し考えていると、突然目の前に白い光を放っている仏の光景が見えたそうです。彼はびっくりしてベッドから起き上がり、それからは神様が本当に存在していると信じ、学習者のことも理解する事ができたと話してくれました。

 ある日の昼休み、私たちが話しをしていた時、彼は突然じっと私を見ました。私が「どうしたの?」と聞いても、彼は答えませんでした。彼はしばらく私を見てから、私に座る場所を変えてほしいと手を振りました。私がその場所を離れると、彼は勤務中の若い囚人を私のそばに呼び、また少し見てから、その囚人を戻らせました。

 彼は私に「大海さん、あなたの修煉は完了しました」と言いました。彼は先ほどおしゃべりした時、私の下腹部のところから白い煙のようなものが出て私の身体を囲み、徐々に全身を覆い、この煙はますます白く明るくなり、彼を驚かせました。自分の見たことが信じられず、別の囚人を呼んできて見てみると、その人の全身が真っ黒な気に包まれているのが見えたと語りました。

 彼は、このような現象が見えたことで、修煉に対する自信を得ました。以前に私は何度も彼に手元の法輪功の書籍を読むように勧めましたが、彼は口で「はい」と答えますが、まだ読み始めていなかったです。今回の経験で、彼は積極的に『轉法輪』の本を読みました。第三講を読み終えた時、彼の長年の慢性腸炎がいつの間にかに治ったことに気づきました。それからは何でも食べられるようになり、徹底的に法輪功の超常的で不思議なことを信じました。

 私と彼は2カ月ほど一緒にいましたが、別れた後、彼は私がいじめられないように、知り合いに面倒を見るように頼んだそうです。しばらくすると彼は解放され、その後で会社を設立したと聞きました。

 2003年9月4日、健康検査を受けた後に私は蘭州刑務所に移送されました。私が持っていた印刷版の『轉法輪』と師父の他の説法は、刑務所の人に押収されました。私が強く反抗したところ、リーダーらしき人物は法輪功の書籍を私に返すように指示しました。健康検査が不合格だったため、私は刑務所に受け入れ拒否され、留置場に戻されました」

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/12/14/453091.html)
 
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